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尾浦城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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[[大宝寺城]]を居城とした大宝寺氏が新たな本拠とした城で、大浦城とも呼ばれる。大宝寺氏は鎌倉幕府の御家人として奥州合戦に参加し、幕府から庄内地方の大泉庄地頭職を拝領した武藤資頼の弟・氏平を祖とする名族で、資頼は九州で少弐氏を、氏平は大泉氏を名乗った。
大泉氏は本拠を大宝寺に置いたことから大宝寺氏を名乗り、やがて羽黒山の別当職も兼ねるようになり、寛正3年(1462年)に室町幕府から出羽守に任じられた。
永正・天文年間には庶流の砂越氏との対立が激化し、大宝寺が焼亡し亡所となったため、本拠を大宝寺城から尾浦城に移したとされる。大宝寺氏は室町幕府や上杉氏の権威を背景として外征を繰り返したが、天正11年(1583年)に大宝寺義氏が家臣の前川蔵人らの謀反により横死した。
義氏の跡を継いだ弟の義興は、前川蔵人改め東禅寺義長の[[東禅寺城>亀ヶ崎城]]を攻撃したが、義長と結んだ[[山形城]]の最上義光に尾浦城を落とされ自害した。義興の養子の義勝は実父で[[越後本庄城]]主の本庄繁長の下へ逃れ、繁長は天正16年(1588年)に義勝とともに庄内地方に侵攻し、最上氏・東禅寺氏から庄内地方を奪還し義勝は尾浦城に復帰した。

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しかし天正18年(1590年)に庄内地方で起こった検地反対の一揆の責任を問われて本庄氏・大宝寺氏は蟄居させられ、庄内地方は上杉氏の執政・直江兼続が支配した。兼続は庄内地方支配の拠点を大宝寺城とし、尾浦城は番城として城将が置かれた。
慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦では、尾浦城を任されていた下秀久が最上氏に降り、その先導で尾浦城は最上氏が攻略した。戦後に最上氏の庄内地方支配が確定し、尾浦城には秀久が引き続き城代として置かれた。慶長8年(1603年)に大宝寺城が[[鶴ヶ岡城]]、東禅寺城が亀ヶ崎城に改称されると、尾浦城も大山城へと改称した。
元和8年(1622年)に最上騒動を理由に最上氏が改易されると、庄内地方には酒井忠勝が入った。忠勝は庄内藩主として鶴ヶ岡城を居城とし、亀ヶ崎城は支城として城代が置かれたが、大山城は廃城となった。
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尾浦城は庄内平野南部の西端に位置し、日本海に面する高館山から南東に伸びた丘陵突端に立地し、城下には出羽北部・越後に通じる北国街道が南北に通っている。
丘陵の頂上部に主郭が置かれ、北西に土塁が残り大堀切によって西側の曲輪と分断されている。南東に伸びる痩せ尾根には小規模な曲輪群が設けられ、北東にも2つの曲輪が続くが遮断施設は築かれず防御性は乏しい。大堀切で隔てられた西側の曲輪は後世の改変が大きく往時の状況は明らかでなく、さらに西側の曲輪には土塁が残っている。
尾浦城とは尾根続きの高館山にも遺構があり、当初は山岳寺院として利用されていたものがやがて城郭としても利用されたと考えられる。

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|所在地|山形県鶴岡市大山|
|現存状態|堀切、土塁など|
|城郭構造|平山城|

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