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小松城 の変更点

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「北陸の関ヶ原」浅井畷の戦いで重要な役割を演じ、江戸時代には加賀藩主前田利常の隠居城となった城。
『加越闘争記』で永禄7年(1564年)に見られるが起源で、天正4年(1576年)に加賀一向一揆の若林長門守が築いたとされる。
『加越闘争記』での永禄7年(1564年)の記述が初見で、天正4年(1576年)に加賀一向一揆の若林長門守が築いたとされる。
能美平野を蛇行して流れる梯川沿いの湿地帯に築かれ、河口に近いことから周囲には海水が満ちていたという。
明智光秀が『明智記』で小松を要害の地と評し、『小松軍記』が北陸無双の城と記す、自然を活かした天然の要害だった。
加賀一向一揆が織田信長に滅ぼされると小松城には村上頼勝が入り、豊臣秀吉による小田原征伐後は丹羽長重が入った。

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関ヶ原の戦いで長重は西軍に属し、小松城は北陸における西軍の重要拠点の一つとなった。
東軍についた[[金沢城>前田金沢城]]主前田利長は小松城を攻撃したが落とせず、[[大聖寺城]]に転進しこれを落としたところで西軍の大谷吉継が流した虚報を受け、金沢城への撤退中に小松城から出撃した長重の攻撃を受けた。
長重は小松城の東に広がる湿地帯を通る浅井畷に兵を伏せて前田勢を襲撃し、利長はこれを撃退したものの積極的な軍事行動は取れなくなり、北陸戦線は膠着状態となった。
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関ヶ原の戦い後に長重は改易され、小松城は前田利長が所有したが、元和元年(1615年)の一国一城令で一時廃城となった。
寛永16年(1639年)、加賀藩主前田利常の隠居城として幕府から例外的に再建を認められ、大規模な改修が行われた。
改修された小松城は広大な湖沼に浮かぶ12の島々をそれぞれ曲輪とし、石橋や木橋で連結した珍しい構造で「小松の浮城」と呼ばれ、金沢城の倍近くの広さを持つ大城郭となった。
利常の死後は城代・城番が置かれて金沢城の支城となり、明治維新に至るまで加賀藩によって管理・維持された。

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|所在地|石川県小松市丸の内町|
|現存状態|石垣、移築門など|
|城郭構造|梯郭式平城|

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