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小山城 の変更点

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藤原秀郷の流れをくむ関東の名族で、室町時代には関東八屋形の一つに数えられた小山氏代々の居城。祇園城とも呼ばれる。
小山氏は秀郷の直系子孫ともされる太田政光が下野小山荘に入って小山姓を称したのが始まりで、久安4年(1148年)に小山城を築いたとされる。
治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵した際には三男の朝光がいち早く頼朝に従い信頼を得て、嫡男の朝政は鎌倉幕府の宿老として幕政に重きをなした。
政光の死後は朝政が宗家を継ぎ、次男の宗政は長沼氏を、三男の朝光は結城氏を興し、小山氏は一族の惣領として勢力を誇った。
朝政は下野守護に任じられ、以後小山氏は下野の守護と国司を兼任・世襲するなど、下野における勢力を確立する。

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鎌倉時代末期に後醍醐天皇が起こした討幕運動に対し、小山秀朝は幕府軍に従って後醍醐天皇の[[笠置山城]]や楠木正成の[[下赤坂城]]を攻めたが、新田義貞が挙兵すると討幕側に転じ、鎌倉攻めで功を挙げた。
この鎌倉攻めの際に秀朝の父・貞朝が討死し秀朝が跡を継いだが、秀朝もまた北条時行が起こした中先代の乱で敗れ自害した。
小山氏の家督は朝郷が継いだが、朝郷は足利尊氏に従って各地を転戦したため本領の小山は留守となり、また尊氏が畿内で北畠顕家に敗れ九州に下るなど、関東の足利方は危機的状況にあった。
この頃の小山城は「茂木文書」によると、建武3年(1336年)8月24日夜に茂木知貞の代官祐恵が「小山乃御館」に移って警固をしているとあり、12月10日には知貞自身も「小山乃御館」に籠もって北畠軍に備えているとある。
一方で同年10月28日には小山の留守を預かる小山貞朝の後家が「城墎」を構えたことを賞賛され、常陸中郡庄を預けられている。
そして翌建武4年(1337年)3月に顕家が小山を攻めた際、「飯野八幡宮文書」には「小山城に寄せ来る」、「熊谷家文書」には「小山城合戦」とあるように「小山乃御館」とは呼ばず「小山城」の呼称を用いている。
これは日常的な拠点だった「小山乃御館」を「小山城」として要塞化したことを示していると考えられ、陸奥相馬氏の[[小高城]]とともに、平時の屋敷を緊急時の要塞とした事例として注目される。
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小山氏は義政の代に下野で台頭してきた宇都宮基綱を討つが、鎌倉公方足利氏満に私闘とみなされて追討を受けた。
この時義政方の拠点として「喜連川文書」に鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城が記されており、祇園城が小山城のことと考えられる。
義政は敗死し、その遺児である若犬丸とその子らも殺害され、この天授6年・康暦2年(1380年)から応永4年(1397年)まで続いた一連の小山氏の乱によって小山氏の嫡流は滅亡した。
関東の名族である小山氏の滅亡は惜しまれ、小山氏の同族である結城氏の泰朝が小山城に入って小山氏は再興し、「関東八屋形」が定められると小山氏も宇都宮氏や結城氏、[[小田氏>小田城]]などとともにその一つとなった。
小山氏は持政の代で結城氏から自立し、[[結城合戦>結城城]]では幕府方として結城氏を討って勢力を回復した。
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やがて関東では鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏、さらに山内上杉氏と扇谷上杉氏の両上杉氏が対立する戦乱の時代に突入し、小山氏は結城氏から養子に入った高朝の下で結城氏と連合して強勢となり、この時代に小山城も拡張された。
しかし関東は後北条氏の台頭や上杉謙信の出兵によって混沌の度合いを増したことで小山・結城連合は解消され、高朝の子・秀綱は後北条派・上杉派に分かれた家中を統率できず小山氏は衰退していった。
後北条氏が上杉氏と越相同盟を結び関東における攻勢を強めると、小山氏はそれまで敵対していた宇都宮氏や佐竹氏と結んで反後北条連合を形成するが、天正4年(1576年)に小山城を落とされて秀綱は佐竹義重の下へ逃れ、小山氏は没落した。
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小山城は北条氏照を城代として北関東攻略の拠点となり、長大な横堀・土塁によって城域を囲い込み、第二郭などにL字型の空堀を掘って馬出を設け、虎口や曲輪間の連絡路を整備するなど、後北条氏の築城技術を導入して大改修を行った。
この大改修によって小山城は現在見られるような姿となり、河岸段丘上の南端に位置する曲輪を主郭とし、そこから北側に幅約20メートルの空堀を隔てて第二郭が配置され、その北側に
塚田曲輪・北曲輪がそれぞれ堀で区切られて連なっていた。
この大改修によって小山城は現在見られるような姿となり、河岸段丘上の南端に位置する曲輪を主郭とし、そこから北側に幅約20メートルの空堀を隔てて第二郭が配置され、その北側に塚田曲輪・北曲輪がそれぞれ堀で区切られて連なっていた。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後は結城秀康が小山城を支配し、慶長12年に秀康が越前[[北ノ庄城]]に移ると代わって相模[[玉縄城]]から本多正純が入った。
正純が元和5年(1619年)に[[宇都宮城]]に移ったことで廃城となったが、小山城の南東にあった小山御殿が元和8年(1622年)に徳川秀忠の日光参詣の際に宿泊施設となっている。

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|所在地|栃木県小山市城山町|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|平山城|
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