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小倉山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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戦国時代に「毛利両川」として毛利氏を支えることになる吉川氏が、約170年に渡って居城とした城。
吉川氏は鎌倉時代に駿河入江荘吉川を本領とし、播磨福井荘や安芸大朝荘にも所領を持っていたが、吉川経高は弟に所領を分配して自身は安芸大朝荘に移り、以後吉川宗家は安芸を拠点とするようになった。
経高は正和2年(1313年)に本領にちなんだ名の駿河丸城を築いて居城とし、南北朝時代末期に吉川経見が駿河丸城の近くに小倉山城を築いて本拠を移し、以後小倉山城が吉川氏の居城となる。

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小倉山城は江川上流にある新庄盆地の北部、標高約80メートルの丘陵上に築かれ、当初は山頂部分のみだった城域が、吉川氏が勢力を拡大していくなかで城域も全山に拡張していったと考えられる。
山頂に設けられた本丸からは新庄盆地と大朝盆地を一望でき、石州街道が通る中山峠や中三坂峠も見渡すことができ、交通の要衝を押さえる城だった。
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吉川氏は室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐追討で功のあった吉川経信や、応仁の乱で奮戦し「鬼吉川」と恐れられ、吉川氏中興の祖と称えられる吉川経基を出し、安芸の有力国人として大きな勢力を誇った。
しかし吉川興経の代では大内氏と尼子氏の双方への鞍替えを繰り返したため周囲の信頼を失い、天文16年(1547年)には吉川氏家臣団が毛利元就の次男で興経の従弟にあたる元春を養子に迎えて吉川氏の家督を継がせた。
新たに当主となった元春は天文19年(1550年)に[[日野山城]]を築いて本拠を移したため、小倉山城は廃城となった。

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|所在地|広島県山県郡北広島町新庄|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|連郭式山城|

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