多氣城 の変更点
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 標高377メートルの多氣山全域を城郭化し大規模な横堀がめぐらされた、栃木県随一、関東でも屈指の大城郭。 康平6年(1063年)に宇都宮氏の祖宗円が築城したという伝承があるが定かでなはなく、「若目田氏系譜」には元亀4年(1573年)に多氣城主が軍功を挙げたと記されていることから、元亀年間(1570~1573年)には存在していたと考えられる。 また『宇都宮記』には宇都宮国綱が天正4年(1576年)2月3日に普請を始め、23日間で完成させたとあるが、150ヘクタールにおよぶ城域を短期間で築城できたとは考えにくく、それ以前に基本部分は出来上がっていたと思われる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 戦国時代末期には下野国への北条氏の攻勢が強まり、宇都宮氏の本城である[[宇都宮城]]が度々脅かされたため、宇都宮氏は宇都宮城を有力家臣の玉生氏に任せ、多氣城に本城を移した。 城の南側には現在でも「下河原」「清願寺」「塙田」「源石町」などの宇都宮城下と同じ地名が残っており、宇都宮城から多氣城への移転は、城下町を含む宇都宮氏の本拠の移転だったことを物語っている。 「中里文書」や「玉生家系図」には天正14年(1586年)から天正17年(1589年)にかけて多氣城が北条氏の攻撃を受け、それを撃退したと記されている。 天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅亡した後、豊臣秀吉は宇都宮城で宇都宮仕置を行い、秀吉が去った後に多氣城から宇都宮城に本城を戻したことが『今宮祭祀録』からうかがえる。 その後慶長2年(1597年)に宇都宮国綱は秀吉によって改易され、多氣城は廃城になった。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|栃木県宇都宮市田下町城山| |現存状態|堀、土塁など| |城郭構造|連郭式山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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