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城郭都市ヨーク の変更点

*現実の城情報 [#information]

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ウーズ川と支流フォス川の合流する平地部分に築かれ、二つの川も市壁の中に取り込んだ、城壁の長さ3.4kmに達する城郭都市。[[ヨーロッパ100名城>日本100名城#nacac76a]]。
現・北ヨークシャー州の州都であり、古代ローマから現代に至るヨークシャーの中心都市。大ブリテン島の中で城壁が残る最大の都市である。
その城壁はローマ時代に建設され補修が加えられてきた城壁と、中世以降に建設された城壁の部分に分かれている。
ローマ時代は現在のヨーク大聖堂周辺を中心に二つの川の間に長方形のローマン・フォートを築いていて、13世紀に南側に拡張された。
20世紀の国王ジョージ6世はヨークに行幸した際、『ヨークの歴史はイングランドの歴史そのものだ』と述べたという。
その言葉通り長い歴史を持つ都市で、かいつまんで述べた以下の折りたたみ部分も相応に長くなってしまったため、時間があるときの閲覧をお奨めする。

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考古学調査によれば、紀元前7000年頃までにはすでに現在のヨーク近辺に人間が定住していたとされる。
都市としてのヨークは西暦71年、ローマ軍第9軍団ヒスパナによって建設された要塞が始まり。ローマ時代にはエボラクムという名だった。
原住民ブリガンテス族を征服・駆逐して建設されたこの要塞は総面積50エーカー(21.5ヘクタール)、6000名の兵士が駐屯する一大拠点であった。
市街地を一周して取り囲む城壁のうち、北側の城壁はローマ時代の城壁そのもの、あるいはそれに補修をしたものである。
ブリテン島に遠征したローマ皇帝はいずれもヨークに本陣を置いてイングランド北部やスコットランドなどを攻めた。
306年、皇帝コンスタンティウスは遠征中にヨークで陣没し、その子コンスタンティヌス1世はその場で皇帝に推戴された。
ローマ衰退後はアングロサクソン人のノーサンブリア王国の、デーン人(ヴァイキング)侵入後はその北海通商の重要拠点となる。
その間637年に最初の教会堂が建立され、のちに改修・改築を繰り返して大聖堂へと発展する。現在のヨーク大聖堂は15世紀の建築で、イギリスの現存する大聖堂では最も大きい。宗教改革の時代に略奪・打ちこわしなどの被害を受けたものの19世紀までに修復された。
ヴァイキングの力が弱まるとイングランド南部から勢力を伸ばしたアングロサクソン系ウェセックス王国の支配下に入った((のちにウェセックスの王が全イングランドの王を名乗るようになった))。

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1069年、ウィリアム征服王によるノルマン・コンクエストの途上ヨークは焼き払われ、その後に新たなヨークが築かれた。
ウィリアムは城壁を再建しつつ、同時に市街地の南側に二つの城(後述)を急造して防御を固める。
その後数年にわたって奪還を目指すアングロサクソン軍との間で戦闘が繰り返されたが、最終的にはノルマン軍が制圧した。
ウィリアムによって徹底的に蹂躙された北イングランドの中で、ヨークはノルマン・コンクエスト戦前から残った数少ない町の一つとなった。
ヨークシャー地方は対スコットランドの攻防の拠点となってノルマン人貴族が多く入り、戦争で荒れたヨークの城壁は修復された。
再建されたヨークは中世を通じてフランス、低地諸国、ドイツ、北海沿岸諸国、遠くはバルト海からも商品が集まる一大物流拠点だった。
こうして政治軍事経済宗教のすべてで重要な大都市となったが、同時にそれは戦乱の際の目標となることも意味していた。

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薔薇戦争はヨーク派とランカスター派が争ったことから、字だけを見ればヨーク地方とランカスター地方の争いにも思える。
しかしこれは両派閥の爵位からの呼び名にすぎない。実際には(ややこしいことに)ヨークはランカスター領であり重要拠点だった。
1460年12月のウェイクフィールドの戦いののち、主街道が通る門ミックルゲイト・バーにはヨーク公リチャードと次男エドムンドらヨーク派の将の首が掲げられた。リチャードの長男エドワード4世が即位すると父弟への仕打ちに対する報復として苛烈な支配が行われた。
17世紀イングランド内戦期にはヨークは王党派に属した。ヨーク地方北部は王党派の強い土地であり、王党派はヨークを拠点に更に南に進撃する。
しかしウーズ川下流三角江((いわゆるハンバー川))北岸の街ハルだけは議会派が残り、1644年ここを拠点に議会派軍が逆襲に転じヨークを攻めた。
議会派軍の包囲を受けて城壁外の家が破壊されつくし、城壁自体も城門を壊される寸前になりながら3ヶ月以上持ちこたえる。
国王の従弟カンバーランド公ルパート王子率いる救援軍1万5千が到着したことで一度は包囲が緩んだものの、救援軍は7月2日マーストン・ムーアの戦いで4千人以上を失う大敗を喫し、解囲の見込みがなくなったヨークは降伏した。
形勢は逆転しヨークシャー戦線は後退、王党派は[[スカーバラ城]]をヨークシャーでの最終拠点とするが、こちらも長い攻城戦の末落城した。

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17世紀後期以降は貿易の中心地としては緩やかに衰退していく。1800年には市当局が城壁撤去案を提議したが、激しい反発に遭い廃案になった。
1839年の鉄道の開業を契機にヨークは鉄道の街として復活する。しだいに鉄道網が整備・延伸されていくと、ヨークはイングランド東海岸を経由してスコットランド方面と行き来する鉄道のハブターミナルとなった。
ヨーク駅に隣接して1975年に開館した国立鉄道博物館は世界最大級の鉄道博物館で、最速記録を打ち立てた蒸気機関車マラード号や日本から寄贈された0系新幹線も収蔵されている。そのヨーク駅を出ると駅前すぐ正面が城壁で内側に入るにはやや迂回を強いられる。
1841年には城壁の内側に鉄道が乗り入れ、行き止まり式の旧ヨーク駅が完成する。このとき線路とぶつかる部分の城壁を壊すのではなく壁に穴を開けて鉄道を通し、壁自体は後代に残した。1877年に現在のヨーク駅が城壁外に完成した後も車庫として1960年代まで使われた。現在は廃線になっているが城壁に開けられた穴の部分は今も残っている。

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|所在地|イングランド、ノース・ヨークシャー、シティ・オブ・ヨーク|
|現存状態|ほぼ現存|
|城郭構造|城郭都市|

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***城郭構造
城壁自体は多くの場所で土塁の上に建っていて、盛土も入れると高さは3メートルから5メートルほど。
ローマ時代の城壁は平地に建てられていて土塁はなかったのだが後から追加され、当時の城壁は半分ほど土中に埋まっている。
厚さも門周辺以外はそこまで厚くはなく、城壁上の通路はすれ違うのがやっと。城壁外側にさらに堀があったが現在では大半の場所で残っていない。
ローマ時代から残る北側の城壁の要所には4世紀初頭に建造された多角形城壁塔が残っている。
絶えず補修が続けられていたが、アングロサクソンおよびデーン人時代の補修はやや雑であるらしく、当時とローマ時代との技術力の差がわかる。
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ヨークでは城門塔をバー(Bar)と呼んでいる。これはノース語での呼び方に由来していて、デーン人統治時代の名残である。
現存する主要なバーはすべて14世紀までに完成したもので、ミックルゲイト・バー、ブーザン・バー、モンク・バー、ウォルムゲイト・バーの四つ。
現存する主要なバーはすべて14世紀までに完成したもので、ミックルゲイト・バー、ブーザム・バー、モンク・バー、ウォルムゲイト・バーの四つ。
そのほかいくつかの小城門(Minor Bar)が存在する。現在バーはどれも比較的単純な門塔になっているが、かつては外側に擁壁を備えていた。
中でもロンドンからの街道が町に入るミックルゲイト・バーは最重要視され、同時に反逆者の首が晒される場所でもあった。前述のヨーク公一派のほか、15世紀初めには[[アニック城]]主の息子“ホットスパー”ヘンリー・パーシー、その子孫((正確には弟の子孫))でエリザベス1世の宗教改革に異を唱えた16世紀のノーサンバランド伯トマス・パーシーも晒し首となった。
城壁は現在も一部を除いてほぼ完全に残っており、城壁上は遊歩道となっている。道や川で分断されている部分以外は上を歩いて市街を一周できる。
城壁はフォス川の両岸部分で不自然にも見える形で途切れているが、これはこの場所が昔は沼地で城壁を築く必要がなかったためである。なお、この沼地は後述のヨーク城のためにフォス川をせき止めたことでできたもの。

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**ヨーク城
南側、二つの川が合流する突端に近い部分にヨーク城がある。ウィリアム1世による制圧ののち典型的なモットアンドベイリー方式で築かれた。
同時にウーズ川の対岸西側にもほぼ同じ規模・同じ構造の城を建て、相互に支援できるようにした。どちらの城も城壁や建物は木造だった。
しかし西側の城はその後城としては使われなくなり石造城砦にも更新されず、のちに市城壁に吸収された。現在もその状態で残っている。
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現在のヨーク城である東岸側の城は1190年に火災で燃え落ち、迫害を避けて城内に逃れていた150人以上のユダヤ人が焼死した((火を放ったのがどちら側かは判然としていない))。
その後、1245年から1270年にかけて再建され、この時に石造化され木造時代の建物跡地にシェルキープが造られた。
現在もモット上に立つ主城塔クリフォード・タワーがそれで、四つの円塔を組み合わせた四葉のクローバーのような形の独特な平面形を持つ。
すでに囲郭式城郭が主流になっていた13世紀当時の時期にこの形式のキープを新造するのは珍しいことだった。
3メートルに達する分厚い壁と縦横24メートルの幅を持つどっしりとした建物で、フランスのエタンプ城を模倣したデザインであるとされる。
ちなみにクリフォード塔の名は14世紀にエドワード2世王に反旗を翻したが破れ、城内で処刑されたロジャー・クリフォードから来ている。
のちに市街地を囲む城壁が南部まで延伸されてくるとその南の防衛拠点として城壁に組み込まれ、イングランド内戦でも使われた。
かつては川から水を引き込んだ水濠で防御されていて、主郭部分のモットだけでなく外側郭のベイリーさえ水濠と川に囲まれる立地の水城だった。現在はどちらの堀も埋められている。城内には二つの博物館が設けられ、古代から近代までのヨークの歴史を学ぶことができる。

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