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*現実の城情報 [#information]

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朝鮮出兵の前線基地として豊臣秀吉が築城命令を出した城であり、大規模な要塞と言われ、織豊系陣城の頂点とされる。
朝鮮半島に最も近い松浦半島の端に築かれたため視野は極めて広く、水軍で知られる松浦党が拠点としていた地でもあり、船団の基地としても便利な場所であった。
天正19年(1591年)に築城が始まり、普請奉行は加藤清正、寺沢広高、設計は黒田如水が担当した。
一日の総動員数が4~5万人と推測される大規模な工事で普請が行われたため、わずか一年で完成したという。

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完成した名護屋城は城域が170,000平方メートルにもおよぶ総石垣の大城郭で、その規模は[[大坂城]]に次ぐものだった。
天守には秀吉が好んだ金箔瓦をあしらい、その荘厳さは相応しい言葉を探しても見つからないほどだったという。一方で軍事的には不向きな部分も多数見られ、籠城戦は想定しない、あくまでも大陸への進出のための前線基地だった。
その反面居住性は極めて充実し、166か所の諸大名の陣営や宿泊施設はもちろんのこと、娯楽施設として茶室や能舞台、遊郭まであったというから驚きである。
城下には城下町も形成され、片田舎にできた巨大な城の誕生により周囲はじょじょに賑わっていき、全盛期には10万人を超す兵が駐屯したといわれ、「野も山も空いたところがない」と書き記すほどの賑わいであったそうだ。
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秀吉による朝鮮出兵が終わると名護屋城はその役割を終え、廃城となった。この地を治めていた寺沢広高は関ヶ原の戦い後に[[唐津城]]を築き、その際に名護屋城の資材を転用したという。
名護屋城は破城が行われた城としても有名で、その時期や理由は明らかになっていないが、幕府が名護屋城を破壊することで朝鮮や明との関係改善の意思を示すためだったとも、一国一城令によるものとも、島原の乱(正確には島原・天草一揆)以降になって一揆などで城に立て籠もられるのを防ぐためだったとも言われる。

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|所在地|佐賀県唐津市鎮西町名護屋|
|現存状態|本丸、二の丸、遊撃丸、上里山丸、下里山丸、陣跡、石垣|
|城郭構造|梯郭式平山城|

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**「唐入りに由縁あり」 [#ga41a3da]

唐入りを表明し、朝鮮からの通信使を国王による服属の使者だと思い込んだ秀吉は、早速大陸侵略に向けた準備を開始する。
天正19年(1591年) 8月13日付で秀吉の側近 石田正澄(石田三成の兄)が肥後国人吉の相良頼房に宛てた書状によれば、''「来年三月朔日に、唐へ乱入されるべき旨に候、各も御出陣御用意尤もに候、なこや(名護屋)御座所御普請、黒田甲斐守・小西摂津守・加藤主計に仰せ出され候」''とあり、文禄元年3月1日に、「唐入り」を開始するため、諸大名にその出陣の用意をするよう命じている。
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またその際、日本の前線基地として肥前国名護屋に城を設け、豊前国中津の黒田長政・肥後国八代の小西行長・同国隈本の加藤清正の三大名にその築城を命じた。
秀吉が唐入りの前線基地として名護屋を選んだのは上記の通り、島伝いに朝鮮半島へ向かう最短距離に名護屋が位置し、軍勢の配置や艦船の集積にも適していたことなどが指摘されている。
築城が開始された名護屋城は5ヶ月ほどで天守や本丸など城の主要な部分が完成したとされる。
文禄の役で九州の大名が渡海した後も他の大名によってその工事は続けられており、文禄元年末頃に城のほとんどが完成したと言われている。

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&color(White,Maroon){「聚楽第にも劣らぬお城、天に伸びる七重の天守」(クリックで表示)};
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**「聚楽第にも劣らぬお城、天に伸びる七重の天守」 [#h335b8d0]

秀吉の出陣命令を受けて名護屋に参陣してきた石見国津和野の領主 吉見元頼の家臣 下瀬頼直は名護屋入りした際に七重の天守を見て感嘆している。しかし、城の評判は武将たちの間だけに留まらなかった。
京都の公家菊亭晴季は''「名護屋の御要害、天下聚楽に劣ることなし」''(『菊亭家記録』)と名護屋城が英美の気づいた[[聚楽第]]に引けをとっていないとし、名護屋城の評判が遠く京都にまで及んでいることがうかがえる。


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