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北畠氏館 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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村上源氏中院家の庶流で、戦国時代には土佐の一条氏、飛騨の姉小路氏とともに三国司に数えられた名門・北畠氏の居城。
延元元年・建武3年(1336年)、後醍醐天皇を支え南朝方として戦った北畠親房が伊勢に入って[[田丸城]]を築き、そののちに東国へと向かうことになるが、親房の三男・顕能は伊勢に残り、伊勢国司として田丸城を本拠地とした。
しかし興国3年・康永元年(1342年)に田丸城は北朝方の攻撃によって落城し、顕能は伊勢の山間部であるに多気に逃れて北畠氏館(多気御所)を築き、以後北畠氏240年に渡る居城となった。

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多気盆地西部の山々の山麓部に築かれた北畠氏館は、山間部にありながら伊勢から大和へ通じる伊勢本街道を押さえる交通の要衝であり、背後の山には詰城を構え、さらに西方の急峻な山には霧山城が築かれた。
また館の正面を流れる八手俣川の対岸に形成された城下町には六田館(東御所)を構え、多数の寺院も配置するなど、山岳地帯から城下まで含めた地域全体を城塞群として守りが固められた。
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顕能は伊勢北畠氏の祖、初代伊勢国司として南朝を支え続け、伊勢の支配を進めていった。
南北朝合一後も北畠氏は北朝系を優遇する室町幕府に反発し、顕能の孫・満雅は応永22年(1415年)と応永35年(1428年)に南朝系の皇統を奉じて幕府に対し反乱を起こしたが、正長元年(1429年)に戦死した。
その後北畠氏は幕府と和解して伊勢に安定した勢力を築いて戦国大名化し、塚原卜伝に師事し剣豪としても知られる具教は北畠氏の最盛期を築いた。
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しかし具教の子・具房の代で織田信長が伊勢へと侵攻し、永禄12年(1569年)には具教・具房父子は大河内城で籠城したものの、信長の子・信雄を養子とする条件で和睦した。
以後北畠氏は織田氏に乗っ取られていき、天正4年(1576年)に具教やその一族が暗殺され、北畠氏館をはじめ北畠氏の城館群は焼き払われ廃城となった。
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現在、北畠氏の城館群は昭和11年(1936年)に霧山城が国の史跡に指定されたのち、平成18年(2006年)には北畠氏館と詰城も追加の指定を受け、「多気北畠氏城館跡 北畠氏館跡 霧山城跡」として登録されている。
また北畠氏館に造営された庭園も「北畠氏館跡庭園」として国の名勝・史跡に指定され、北畠氏の繁栄を伝えている。
そして平成29年(2017年)には北畠氏館が[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|三重県津市美杉町上多気|
|現存状態|庭園、土塁、堀など|
|城郭構造|平城|

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