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勝山御殿 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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幕末に長州藩の支藩である長府藩が、近代戦に対応して築いた新たな藩庁。
文久3年(1863年)5月、長州藩は馬関海峡を通過する外国船に砲撃し、翌月にフランス艦が報復の砲撃を行った。
当時長府藩の藩庁は馬関海峡に面する高台に築かれた櫛崎城(長府陣屋)に置かれており、フランス艦からの砲弾が着弾し城下にも被害が出たため、急遽内陸部へと藩庁を移転することとなった。
当時長府藩の藩庁は馬関海峡に面する高台に築かれた[[櫛崎城]](長府陣屋)に置かれており、フランス艦からの砲弾が着弾し城下にも被害が出たため、急遽内陸部へと藩庁を移転することとなった。
新たな藩庁の地に選ばれたのが、三方を山に囲まれた要害の地である勝山で、ここにはかつて大内義長が毛利元就に対して籠城戦を行った勝山城があり、その山麓に長府藩の藩庁を築くことが決定された。

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築城は同年6月28日から突貫工事で進められ、わずか7ヶ月で勝山御殿が完成、翌年2月1日に長府藩主毛利元周が入城した。
御殿の縄張は有川乃右衛門が行い、三の丸・二の丸・本丸と階段状の三段構造で築かれ、砲撃戦を想定した稜堡の要素も持ち、砲撃の目標物となる櫓は建てられなかった。
石垣は当時名工として知られた石工・延右衛門が構築し、三段の曲輪はそれぞれ石垣で厳重に固められ、さらに砲撃戦に対応するため石垣の上部に土塁を設け、砲弾の衝撃を緩和する工夫が凝らされた。
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以後勝山御殿は短期間ながら長府藩の藩庁として機能し、元周は同年8月のイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四ヶ国連合艦隊との戦いにも、勝山御殿を拠点に参戦している。
明治2年(1869年)に長府藩が豊浦藩となってからも勝山御殿は引き続き用いられたが、明治4年(1871年)の廃藩置県の際に廃城となり、明治6年(1873年)に解体された。

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|所在地|山口県下関市|
|現存状態|石垣|
|城郭構造|館|

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