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出羽丸岡城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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築城年代は不明だが戦国時代初期に押切備前守によって築かれたとされ、鎌倉時代から戦国時代にかけて出羽の庄内地方を治めていた武藤氏(大宝寺氏)の、六十里越街道を押さえる支城として機能した。天正年間には大宝寺義氏の弟・義興が丸岡氏を名乗って出羽丸岡城に在城していた。
義興は兄の急死によって大宝寺氏の家督を継いで尾浦城に入り、[[本庄城>越後本庄城]]の本庄繁長の次男・千勝丸(のちの大宝寺義勝)を養子に迎え、本庄氏・上杉氏と結んで[[山形城]]の最上義光に対抗した。
義興は兄の急死によって大宝寺氏の家督を継いで[[尾浦城]]に入り、[[本庄城>越後本庄城]]の本庄繁長の次男・千勝丸(のちの大宝寺義勝)を養子に迎え、本庄氏・上杉氏と結んで[[山形城]]の最上義光に対抗した。
しかし義興は天正15年(1587年)に義光に討たれ、跡を継いだ義勝は実父の繁長の下へ逃れた。義勝は翌年に繁長とともに義光に対して反撃し庄内を回復したが、天正19年(1591年)に一揆を扇動したとして改易された。
出羽丸岡城は大宝寺氏の後は上杉氏、最上氏が所有したが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。

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|所在地|山形県鶴岡市丸岡町ノ内|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|平城|

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&color(White,Maroon){加藤清正の菩提寺(クリックで表示)};
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**加藤清正の菩提寺 [#a7d61ba0]

出羽丸岡城には隣接して加藤清正の菩提寺である天澤寺があり、この地は戦国大名加藤氏の終焉の地として知られている。
清正の子・忠広は[[熊本藩>熊本城]]主として清正の跡を継いでいたが、寛永9年(1632年)に幕府によって改易となり、[[出羽庄内藩>鶴ヶ岡城]]主の酒井忠勝に預けられた。
忠広は生母の正応院や20人の家臣などとともに丸岡の地に入り、堪忍料1万石を与えられ、出羽丸岡城跡に館を建てて居住した。この時に忠広は父・清正の遺骨を熊本から丸岡へと持ち出し、菩提を弔った。
忠広はこのことが幕府に知られて詮議された時に備え、墓所を天澤寺境内の清正閣とし、実際には出羽丸岡城跡にある館の奥庭に埋葬し、大磐石を置いて隠匿したという。地元ではこの大磐石を太夫石、その隣の正応院を埋葬したとされる場所に置かれた石を巫女石と呼んでいる。
天保3年(1646年)に丸岡大火が起こると忠広の館や天澤寺は全焼し、忠広は京の館を移築して新たな居館とした。清正の遺骨は天澤寺の境内に移され、五輪塔を建立して供養したという。
その後忠広は承応2年(1653年)に死去し、丸岡の地は幕府の直轄領となった。忠広の末裔は加藤与治左衛門家として山形県で存続していたが、平成元年(1991年)に加藤セチが亡くなったことでその本家は断絶した。分家の筆頭である加藤与忽左衛門家をはじめとするその他の子孫は、現在も山形県を中心に全国各地に散らばっている。
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現在、出羽丸岡城跡と天澤寺は加藤清正ゆかりの地として、全国各地から観光客が訪れている。
昭和24年(1949年)には清正閣の地下で清正のものと伝えられる兜と対になる鎧が発見され、また五輪塔からは清正の遺骨も発見された。
これらの発掘調査の結果に基づき、天澤寺とその周囲は昭和38年(1963年)に「丸岡城跡・加藤清正公墓碑」として山形県指定史跡となった。また加藤清正公墓碑は地元の人々に「清正公様」と尊称され、毎年7月下旬に清正公祭が行われている。
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天澤寺の境内には大いちょうの木があり、その付近に加藤清正公墓碑が置かれ、また天澤寺の周囲をめぐる水堀跡の形状などから、この付近が2016年12月27日~2017年1月10日開催の緊急出兵[[天下睥睨の蛇眼]]と、2017年7月4日~7月11日開催の緊急出兵[[討伐武将大兜!加藤清正]]の舞台になったと思われる。

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