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五十子陣 の変更点

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関東管領山内上杉房顕が、古河公方足利成氏と争った享徳の乱の際に本陣を置いた城。
成氏方は東上野・下野・下総・上総・安房など利根川以東を勢力圏とし、一方の上杉方は西上野・武蔵・相模・伊豆など利根川以西を勢力圏とし、五十子陣はその境界線に築かれた。
五十子陣は本庄台地の東北端に立地し、北側は女堀川が形成した段丘崖と低湿地に守られ、南~東側にかけては小山川や宍戸川が流れるという、陣を置くのに適した条件にあった。
また上杉方はその勢力範囲から西関東を南北に連携する必要があり、鎌倉街道上道やその分岐線を押さえ、かつ山内上杉氏の本国である上野との連絡もしやすい五十子の地が本陣に選ばれたのである。
五十子陣に在城した軍勢は山内上杉氏・扇谷上杉氏・越後上杉氏が引き連れてきた守護管轄下の兵を中心とし、さらに室町幕府将軍・足利義政の弟で関東に下向し堀越公方となった足利政知の軍勢や京からの援軍も加わっていた。

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享徳の乱における五十子陣をめぐる戦いは五十子の戦いと呼ばれ、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に繰り返される、享徳の乱での激戦の一つだった。
長期にわたって五十子陣に動員された武士にとっては、五十子陣は軍役奉仕の場であるとともに、自らの所領に関して守護に訴える場でもあった。
「由良文書」には、上野の善氏と山上氏が3年間五十子に在陣して軍役を務めるとともに、奪われた所領へ復帰できるよう山内上杉氏に願い出たことが記されている。
また「中条家文書」にも、越後上杉氏に動員された中条氏と黒川氏が、所領争いについて守護への取次を求めていたとある。
このように五十子陣は守護所のような役割も果たしていたことで、当時の関東において大きな政治的求心力を持っていた。
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また五十子陣には合戦とは直接関係の無い人々も在陣しており、「香蔵院珎祐記録」は長禄4年(1460年)12月に、前年に鶴岡八幡宮若宮別当に還補された弘尊が謝意のため五十子陣んを訪れたことを記している。
また寛正2年(1461年)8月には、越後善照寺の僧である増珎が五十子陣にて越後守護上杉房定の判物を得たと「善照寺文書」にある。
「萱草」には、文正元年(1466年)9月には連歌師の宗祇が五十子陣を訪れて山内上杉氏が主催する連歌会に参加し、年代は不明だが千句連歌会が行われていたことも記しており、五十子陣は文化的中心地の一つでもあったことを示している。
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文明3年(1471年)4月、五十子陣から出撃した上杉方は6月には成氏を古河から追ったが、翌年2月には成氏が古河を回復した。
しかし文明5年(1473年)11月には逆に成氏方が五十子陣を攻め、扇谷上杉政真が討死した。
さらに文明8年(1476年)6月、山内上杉氏の家宰職を継げなかったことを不満とした長尾景春が、成氏方について[[鉢形城]]で蜂起するという長尾景春の乱が起こった。
文明9年(1477年)1月18日に五十子陣は景春によって落とされ、陣は解体し山内上杉顕定は本国である上野の[[平井城]]へと逃れた。

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|所在地|埼玉県本庄市東五十子・西五十子など|
|現存状態|なし|
|城郭構造|平城|

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