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亀ヶ崎城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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[[大宝寺城]]が言及する城。
15世紀末、庄内地方で勢力を拡大していた大宝寺氏が、庶流の砂越氏に対抗するために築いた東禅寺城がはじまりで、当時この地にあった東禅寺が城名の由来という。永正・天文年間には大宝寺氏と砂越氏との対立が激化し、東禅寺の地で合戦が行われた。
天正11年(1583年)に[[尾浦城]]の大宝寺義氏が、[[山形城]]の最上義光と通じた家臣の前森蔵人らの謀反によって横死すると、前森は東禅寺城に入り東禅寺義長を名乗った。しかし天正16年(1588年)に大宝寺氏と結んだ[[越後本庄城]]の本庄繁長が庄内地方へと侵攻し、最上氏・東禅寺氏は庄内地方を失うこととなった。
天正18年(1590年)には東北各地で起こった検地反対の一揆が庄内地方へも波及し、翌年に一揆は鎮圧されたが本庄氏・大宝寺氏は責任を問われて蟄居を命じられた。代わって庄内地方を支配したのが上杉氏の執政・直江兼続で、甘糟景継が東禅寺城の城代に任じられた。慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦の際には志駄義秀が城将として東禅寺城で防戦したが、翌年になって最上方に開城した。
慶長出羽合戦の後は最上氏が庄内地方を支配し、志村光安が東禅寺城の城将となった。慶長8年(1603年)には庄内地方の酒田湊に大きな亀が上がったことを吉兆として東禅寺城は亀ヶ崎城と改称された。この時[[大宝寺城]]も[[鶴ヶ岡城]]へと改称されている。
元和8年(1622年)に最上騒動を理由に最上氏が改易されると、庄内地方には酒井忠勝が入った。忠勝は庄内藩主として鶴ヶ岡城を居城とし、亀ヶ崎城は支城として城代が置かれ、幕末まで存続した。

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亀ヶ崎城は最上川右岸の標高約3メートルの微高地に立地し、当時は最上川が南から西側に接していた。北から西側は新井田川が流れ、この2つの川の合流点に位置した。
縄張は部分的に四重となっている三重の堀・土塁によって囲まれる構造で、本丸と二の丸が東西に並列する巴形となっており珍しい縄張とされるが、元々は本丸と二の丸は一体だったとも考えられている。
本丸と二の丸を囲むように三の丸・四の丸がめぐり、南側の鵜渡河原には侍屋敷が配置され、これらが堀・土塁で囲まれ総構とされた。また新井田川の西岸には独立した曲輪である御蔵が置かれ、その外側に町屋域も取り込んだ堀がめぐらされた。


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|所在地|山形県酒田市亀ヶ崎|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|輪郭式平城|
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