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不破関 の変更点

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美濃国の関所で、伊勢国の鈴鹿関(すずかのせき)、越前国の愛発関(あらちのせき。9世紀初頭より近江国の逢坂関(おうさかのせき、あふさかのせき)に代わった)と並んで律令三関(以下、三関)と呼ばれ、広義にはこれより東を「関東」と称する。
不破関(ふわのせき)は「関ヶ原」の地名の由来でもあるが、発掘調査により12万平方メートルに及ぶ大規模な要害で、外郭には版築による土塁が巡っていることが分かった。
天武天皇2年(673年)には天武天皇により、この三関が設置され、大宝元年(701年)の大宝律令により警察・軍事の機能を兼備することが法的に規定された。
三関は江戸時代の関所のような警察施設としてだけではなく、軍事施設としても機能していたのであり、ここに常駐した国司四等官は城主と呼ばれていた。
延暦8年(789年)には桓武天皇の勅により三関は突如撤廃されたが、非常時に関の封鎖を命じる「固関」の儀式は江戸時代まで続いた。
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三関が設置される前年、天武天皇元年(672年)の壬申の乱では美濃国の多品治によって「不破の道」が封鎖されている。
そして不破関は石田三成と徳川家康が対立した際にも要衝となり、三成は東軍の侵攻を防ぐべく、西南の[[松尾山城]]を修築している。
さらに三成は[[岐阜城]]落城を知ると、岐阜城・[[大垣城]]を結ぶ防衛線を断念し、大谷吉継らに関ヶ原へ集結するように要請し、自身は不破関に由来する地名である小関村に布陣した。
これは中山道・北国街道・伊勢街道の分岐点にあたるこの地を抑え、東軍の近江国侵攻及び[[佐和山城]]への攻撃を防ぐ狙いであった。
また不破関の土塁を利用して陣所を築いたのが宇喜多秀家で、不破関の北端の土塁と天満山から伸びた土塁が防衛線を形成していた。不破関の土塁は途中から二重構造になっており、合戦に備えて強化されていたことがわかる。
福島正則は不破関の土塁の外側に布陣し、土塁によって守られた秀家の陣を攻撃した。不破関の東端の土塁からは鉛の銃弾が発掘調査で見つかっており、激しい銃撃戦が展開されたと考えられていた。
しかし、兼ねてより東軍に内通しており松尾山城を占拠した小早川秀秋が開戦直後に大谷隊を攻撃すると、西軍は瞬く間に壊滅した。
いずれにせよ兼ねてより東軍に内通しており松尾山城を占拠した小早川秀秋が開戦直後に大谷隊を攻撃すると、西軍は瞬く間に壊滅した。
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なお関ヶ原の戦いにおいて、三成が笹尾山に布陣したという説は近年には白峰旬氏が『新解釈 関ヶ原合戦の真実』にて疑義を呈し、高橋陽介氏『一次史料にみる関ヶ原の戦い』、乃至政彦氏『戦国の陣形』により否定されている。
また、白峰氏は秀秋の開戦時点の布陣位置は松尾山城ではなく、大谷隊の背後の小高い丘に布陣したものだと考えている。
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現在、不破関跡には不破関資料館が建てられ、発掘調査により出土した土器や瓦、和同開珎などが展示されている。

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|所在地|岐阜県不破郡関ケ原町|
|現存状態|土塁|
|城郭構造|関所|
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