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上山城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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戦国時代に最上氏と伊達氏による争奪戦の舞台となり、江戸時代にはその美しい姿を称えられ「羽州の名城」と呼ばれた。
応永年間(1394年~1427年)に天童氏の一族・里見満長が上山の地に入り上山氏を称し、高楯城を築いたのが初めとされる。
上山は羽州街道と米沢街道が分岐する交通の要衝であり、[[山形>山形城]]の最上氏と米沢の伊達氏の間に位置したことから両氏が衝突を繰り返し、永正5年(1508年)には上山義房が伊達氏に攻められて逃亡した。
その後義房の子・武衛義忠が城を奪還し、天文4年(1535年)に天神森丘陵(月岡)に上山城を築いて本拠を移した。

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天童氏と最上氏が対立するようになると、義忠の孫・上山満兼は天童氏に与して最上氏と戦うが、最上義光は謀略によって満兼の家臣である里見越後・民部父子を寝返らせて上山城を攻略し、里見民部を城主とした。
関ヶ原の戦いの際には最上義光と上杉景勝が争った慶長出羽合戦の舞台となり、里見民部は巧みな指揮によって上杉軍を撃退し、上山城を守り抜いた。
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元和8年(1622年)に最上騒動と呼ばれるお家騒動によって最上氏が改易されると、上山には能見松平重忠が入って上山藩を立藩し、蒲生氏郷の孫にあたる蒲生忠知を経て、寛永5年(1628年)に土岐頼行が入った。
この土岐氏の時代に上山城は大規模な改修を受け、三重の天守や壮大な櫓門を備え、美しい白壁の城壁が巡らされた「羽州の名城」が誕生したのである。
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しかし元禄5年(1692年)に土岐氏は転封となり、その際に上山城は破却された。
その後、金森頼時が入って上山城は再興され、元禄10年(1697年)に藤井松平信通が入ってからは城主が安定し、以後は藤井松平氏が明治維新まで10代170年あまりにわたって城主を務めた。
その間にもかつての名城を復活させるべく上山城の再建が試みられたが、二の丸に居館を設けたのみで天守は再建されず、明治6年(1873年)の廃城令によって廃城となった。

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|所在地|山形県上山市|
|現存状態|堀、土塁、石垣など|
|城郭構造|平山城|

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