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ビスクピン の変更点

*現実の城情報 [#information]

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ヨーロッパから東アジアまでは陸続きであるため、文化は西から東へ、あるいはその逆で伝わると考えられてきた。城郭構造や技術もそうであった。
しかし、ポーランドのビスクピンのような城壁村落の発見により、ヨーロッパ城塞の直接の起源は東ヨーロッパに求められるのではないかという推測も出てきた。文化の伝播というよりも並行して発展を遂げた可能性を指すのだ。
ビスクピン築城は青銅器時代(ポーランド:紀元前1700~紀元前1200年ごろ)にまで遡り、湿地帯の中に建設された。東ヨーロッパのスラブ人特有の城塞構造でグラードと呼ばれる木造壁で村落を囲ったものであった。
ポーランド語ではグロディ、複数形はグルード、ロシア語ではグラディやゴロディと呼ばれるが、周囲を木造パリサード((「柵」を意味するフランス語))で覆うため環状構築物(リング・ワーク)と呼ばれることもある。



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|所在地|ポーランド|
|現存状態|櫓、グラード、杭(逆茂木)、堀、橋|
|城郭構造|グラード|

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&color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)};
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**城郭構造 [#v86bc83e]

グラードの外は傾斜のある土塁となっており、そこに障害物用の逆茂木(尖った丸太)が約4万本も打ちつけられている。これを攻勢作戦波破砕体という。
グラードの内側は粘土で被覆された筐体形式構造の城壁となっており、高さは5~6メートル、幅は3メートルもあり、城壁には通路もあった。
唯一の城門は櫓の役割を持っており、攻め込んでくる敵がいないかをここで見張ることができた。橋の幅は敵が並列で襲い掛かってこれないようあえて狭めて架けてある。
居住地の家屋は長屋造りでいくつも列をなし戸数は105もあったという。通路は12本の平行な丸太を敷いて作ったコーデュロイ道路になっているが、通路は狭く攻め込まれた際の脱出経路がないに等しい。
ビスクピンの防御施設にはバスケット織り状の木造壁を二枚ないしは三枚建て、その間に土や砂、粗石を詰めて補強されたが、青銅器時代にまで遡るこの技術は6〜8世紀のスラヴ人地域において恒例であった。また、グラード内部には小さいながらも広場が設けられていた。
このようなビスクピンの構造は、中世におけるこの地域の築城の典型的なものであった。
ビスクピンの防御施設にはバスケット織り状の木造壁を二枚ないしは三枚建て、その間に土や砂、粗石を詰めて補強されたが、青銅器時代にまで遡るこの技術は6〜8世紀のスラヴ人地域において恒例であった。
また、グラード内部には小さいながらも広場が設けられていた。このようなビスクピンの構造は、中世におけるこの地域の築城の典型的なものであった。

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