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パレンケ の変更点

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パレンケはメキシコ合衆国の遺跡でユネスコ世界遺産に登録されており、東の芸術都市がコパンならば西はパレンケといわれるほどの大都市であった。
パレンケはメキシコ合衆国の遺跡でユネスコ世界遺産に登録されており、東の芸術都市が[[コパン]]ならば西はパレンケといわれるほどの大都市であった。
マヤ文明の地図からすると西端にあたり、チアパス高地山腹の丘陵上に立地する。「パレンケ」の名はスペイン人が命名した地名の一部を抜き取って付けられたもので「柵」を意味する。
本来の名前はマヤ文字の解読から求めることができ、古典期のマヤ人からは「ラカム・ハ(大いなる水)」と呼ばれていたようだ。遺跡に聳え立つ神殿ピラミッドからはメキシコ湾岸低地を一望できる。
都市としては大変栄えていたようで、王宮内の宮殿を中心に、穴の開いた屋根飾りや傾斜のある屋根をもった建物が立ち並ぶ。王や貴族の人物像をはじめとする建物の外壁を飾る漆喰の浮彫が美しい。
コパンや[[ティカル]]のような大きな石碑はないが、石板や壁にいつくかの碑文が確認できる。大いなる水の都市だけあり近くの小川の水を石造りの水路を通して街に引いていた。今でもマヤ・アーチに絶えず流れている。

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いつから人が移り住んでいるのか。発掘調査の結果、遅くとも先古典期の後期(紀元前400年~後250年)には居住され始めた様子だが、パレンケがもっとも栄えるのは7世紀になってからである。
パレンケ王朝は16代の王が即位している。ただこれは発見された数であり、少なくとも16人は居たというものである。初代は「ケツァル島・ジャガー」を意味するクック・バフラム王で431年から435年の四年間を統治した。
統治と言えば男性の印象が強いが、パレンケ王には女王も存在する。男性の継承者がいなかったために583年、イシュ・ヨフル・イクナルが女王として8代目王に君臨した。パレンケ王朝で唯一の女王である。
604年に亡くなるまで20年近く統治したが、599年にその当時強大なカラクムル王朝との戦いに敗れた。再び611年にカラクムル王朝側から攻撃されパレンケ王朝は侵略による危機を感じていた。
二度の敗戦を経験し都市が対外の恐怖におびえていたころの615年、マヤ文明の中でもっとも有名な王キニチ・ハナブ・パカル(以下パカル王と称す)が弱冠12歳で王位に就く。
パカル王は7世紀の半ばから宮殿の増改築を進め、659年には宿敵カラクムル王朝の同盟を結んだサンタ・エレナとの戦争に勝利し、その王と貴族の6人を捕虜にした。宮殿の「捕虜の中庭」にはその光景が記録されている。

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|所在地|メキシコ合衆国|
|現存状態|神殿ピラミッド、広場、十字の神殿、王宮|
|城郭構造|都市|
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