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ハーレフ城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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ハーレフ、またはハーレック城はグウィネズ、スノードニア山地から続く台地の縁に建ついわゆる崖端城。世界遺産。
[[アイアンリング>日本100名城#b2a2238d]]のうちのひとつで、エドワード1世のウェールズ侵攻中の1282年から1289年にかけて築かれた。
ウェールズ大公スリウェリンの死後も抵抗を続けるウェールズ勢力を海岸線から中部山岳地域に追い込むための城のひとつである。
築城に要した費用は8200ポンド近くに達した。

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&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
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1404年にオワイン・グリンドゥールの反乱軍に包囲された際は兵士があまりにも少なすぎて防衛できなかったという逸話がある。
ハーレフ城は反乱指導者グリンドゥールの住まいとして使われたが、1409年2月食糧攻めの末に城代モーティマー卿((1402年にグリンドゥール軍の捕虜となり、解放交渉が王に拒絶されたことで不満を抱き寝返ったイングランド貴族。グリンドゥールの娘婿))を含む多数の餓死者病死者を出してイングランド側に奪還される。

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薔薇戦争ではノーサンプトンの戦いに敗れたランカスター派のウェールズにおける拠点となり、ランカスター派諸侯を糾合してヨーク派に抗戦し続けた。当然ヨーク派もウェールズに侵攻し決着をつけようとするが、海路からの補給で支えられたハーレフ城は他の城が落ちる中でも健在だった。
最終的にヨーク派は1468年、1万近い大軍を動員してハーレフ城を攻めてやっと陥落させている。このときの勇戦を歌った曲『ハーレフ城の男達(Men of Herlech)』は現在でも行進軍楽曲やテレビ局のテーマ曲などで使われている。ただし7年間に及ぶ包囲と言われるが実際には断続的なものであったと思われる。
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17世紀のイングランド内戦ではウェールズの王党派最後の拠点となったが、1647年に降伏開城し破却された。
現在はCadwの管理下にある。

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|所在地|ウェールズ、グウィネズ、ハーレフ|
|現存状態|現存(主郭ホール部と屋根等を除く)|
|城郭構造|集中式城郭|

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&color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)};
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共に世界遺産に指定されている[[カーナーヴォン城]]、[[コンウィ城]]、[[ビューマリス城]]と違い海抜200フィート(約61メートル)の岩場の上に建っている。
築城された時代には城の直下まで海が来ており、外城壁に守られた搦め手口が城の下の船着場まで続いていた。下側の城壁は岩場の麓を一周していた。
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台地の下とは標高差があるが上側とはあまりなく、防御施設もそちらに重点が置かれている。
城の本体は主城塔を兼ねる大きく頑丈な城門塔と四隅の塔で守られた台形の主郭と、その外に細い帯状の外郭を持つ。
典型的な集中式(エドワード様式)城郭であり、主郭は高く厚い城壁で、外郭は主郭より低く薄い城壁で囲まれている。
城門塔は外側に更に跳ね橋を防御するための小塔を持っていた。また南側外城壁にも小塔が追加され防御力の向上が図られていた。
高低差と岩山のために北側からは攻撃できず西側は海で、攻撃は城の南か東側からだけに限られた。その南側と東側には外郭よりも幅の広い堀を設けている。
他の城では失われていることも多い主郭内部のホール(居住区画)の基礎が部屋割りがわかる形で残っているのも特色である。

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