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ツェリェ城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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ツェリェ城はスロベニア第3の都市ツェリェの南東の岩山に建つ城。三つの丘を縄張り内に取り込んだ、スロベニア国内最大級の城の一つ。
胸壁付きの歩廊を持つ城壁で囲まれた囲郭式城郭。
築城は13世紀前半のホーエンブルク伯によるとされるが、12世紀前半の史料にも城砦の記載が見られこれを拡大強化したものと思われる。
1348年に地震で被害を受けるが修理と共に拡大強化された。その後も神聖ローマ帝国内の要衝のひとつとして維持され現在の姿になった。

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ツェリェの町としての歴史はローマ帝国以前ケルト人時代に遡り、ローマに併合されたのちには城壁を持つ裕福な城郭都市と記録されている。
ローマ街道の中継地点でもあり、後世にわたっても交通の要地として栄えた。現在も鉄道・国道・高速道路が集まっている。
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13世紀末に近隣の領主同士の戦いで一度破壊され再建される。
1333年ホーエンブルク伯の縁戚ザンネック領主フリードリヒが城を相続、1341年にツェリェ伯に叙せられ、以降ツェリェ伯の城となる。
100年ほど後の15世紀にツェリェ伯が断絶すると、ツェリェ領はハプスブルク家のシュタイアーマルク公国の統治下に入る。
その後もスロベニアおよび東アルプス周辺でも有数の城であったが、ハプスブルク帝国の安定化と共に戦略的重要度は下がり、17世紀後半には荒廃。
1755年に城を買い取ったガイスリュック伯は新しい居館を(城の石材を一部使って)別に築き、住む人の無くなった城は完全に廃墟となった。
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19世紀の末期から史跡として注目されるようになり修復も行われるが、周辺の情勢によってたびたび中断を余儀なくされる。
それでも第二次大戦後から再び修復・復元工事が続けられ、城へのアクセス道路も新設されるなど現在では地域観光の目玉となっている。

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|所在地|スロベニア、 ツェリェ|
|所在地|スロベニア、ツェリェ|
|現存状態|城壁、城塔|
|城郭構造|囲郭式城郭・山城|

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