Top > チチェン・イッツァ


*現実の城情報 [#information]

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世界で最も有名なマヤ文明の遺跡といえば、まずチチェン・イッツァの名前が挙がる。その中でも別名「ククルカン・ピラミッド」と呼ばれるエル・カスティーヨは別格だ。
春分と秋分の午後の二回だけ、北側の階段に当たる太陽が光と蔭とを生み出し、豊穣の神ククルカンを現出させる。この神々しい現象を見るために毎年数万人の観光客が遺跡を訪れる。
エル・カスティーヨは底辺60メートル、高さ30メートルを誇る最大級の神殿ピラミッドであり、基壇の部分だけでも24メートルある。四面にはそれぞれ91段の階段が設けられた。
4面各91段と、高さ6メートルの神殿に登るための1段を合わせると365段となり、これは暦(365日)を表していると考えられる。神殿は太陽暦のピラミッドであったのだ。
同時に「光の大蛇」を降臨させる宗教上および権力象徴の装置であったこともこの神殿の特徴である。大蛇への信仰は古来日本でも広く人々に信仰されてきた。
それを象徴するのが神社で見かける注連縄で、これは交尾をする蛇を象徴している。そのほか、神話上ではヤマタノオロチや、人面香炉形土器などの土器にいたるまで蛇が用いられてきた。

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古典期後期(600年)ごろからマヤ低地北部ではチチェン・イッツァ、コバー、ウシュマル、ツィビルチャルトゥンの大都市が栄えはじめ、マヤ低地南部が衰退する古典期終末期に交差するかたちで黎明期を迎えた。
マヤ低地南部の大都市は侵略や戦争によって衰退を迎え、文明は南から北上し200年をかけてゆっくりと移り変わっていったのだ。
人口は最盛期とされる900年~1000年で3万5000人を超え、敷地面積は30平方キロメートル、舗装提道サクベは中央アメリカでは最多の90を記録した。球戯場の数も13か所とこれもマヤ最多の規模である。
チチェン・イッツァには「カラコル(スペイン語:巻貝)」と呼ばれる円柱型の天体観測所があった。名前の由来は内部に巻貝のような螺旋階段を要しているから、という単純な理由であったらしい。
当然ながら、これは後世に名付けられた施設の名称であって当時の呼び方ではない。観測窓からは春分、秋分、日没、月、金星が観測された。基壇の北東隅は夏至の日の出、南西では冬至の日の出の方角を指していた。
基壇に建つ石碑の日付は906年である。
なお、民俗資料に基づいて提唱された、メキシコ中央高地のトルテカ文明(900年~1150年)の支配層がチチェン・イッツァを征服したという「トルテカ帝国説」は証拠がなく、現在は否定されている。
基壇に建つ石碑の日付は906年である。なお、民俗資料に基づいて提唱された、メキシコ中央高地のトルテカ文明(900年~1150年)の支配層がチチェン・イッツァを征服したという「トルテカ帝国説」は証拠がなく、現在は否定されている。
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|所在地|ユカタン、メキシコ合衆国|
|現存状態|神殿ピラミッド(エル・カスティーヨ)、居住跡、広場、戦士の神殿、天文観測所|
|城郭構造|都市|
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