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*現実の城情報 [#information]

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「第2のローマ」「新しいローマ」として地中海世界の中心地であるとともに、キリスト教正教会の総本山であり、東西文明の十字路でもある、キリスト教世界最大の都市として繁栄した、千年以上に渡ってローマ帝国の中心となった帝都。
古代ギリシアの植民市ビザンティオンを起源とし、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が現在のイスタンブールの地に、自身の名を冠して「コンスタンティヌスの町」を意味する都を建設した。
以降の皇帝はコンスタンティノープルに住まない者も多かったがテオドシウス1世はコンスタンティノープルに定住し、彼の治世を最後にローマ帝国は最終的に東西に分裂し、今日「東ローマ帝国」や「ビザンツ帝国」と称される帝国の都として歴代皇帝が居住した。

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413年にはゲルマン人やフン人の侵入に備えるため、テオドシウス2世はコンスタンティヌスの市壁から防衛線を西に伸ばした、高さ13メートルの「テオドシウスの城壁」を築いた。
447年の地震で大部分が崩壊するとテオドシウスは再建に全力を注ぎ、これを修復するだけでなく大城壁の外側に外城壁を築いて堀を設け、巨大な三重城壁が完成した。
これによって半島は金角湾とマルマラ海沿いの海岸城壁、テオドシウスの城壁によって完全に防御され、オスマン帝国に破られるまでの実に千年以上に渡り正攻法で破られることはなく、文字通り鉄壁として外敵の前に立ちはだかった。
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コンスタンティノープルは地中海帝国を一時的に復活させたユスティニアヌス1世の治世で最初の繁栄期を迎え、世界最大級の都市へと発展した。
その後イスラームの台頭により一時衰退したものの、コンスタンティノープルは867年のバシレイオス1世に始まるマケドニア朝のもとで最大の繁栄を迎えた。
特にニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世はイスラームやロシア、ブルガリアを圧倒して地中海世界に君臨し、東ローマ帝国の最盛期を現出した。
コンスタンティノープルは地中海世界の政治・経済・文化・宗教の中心地となり、当時の西ヨーロッパの都市の10倍以上となる数十万の人口を有する巨大都市として繁栄、城壁も攻城戦技術の発展に対応して改修が繰り返された。
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しかし1025年のバシレイオス2世の死後帝国は衰退し、コムネノス朝時代に海洋交易国家であるヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国と結んで再び繁栄したが、1204年の第4回十字軍の際に内紛によって一時的に攻略された。
東ローマ帝国は1261年に帝都を奪還したものの14世紀からはオスマン帝国の脅威にさらされ、1453年に陥落した。
コンスタンティノープルの陥落と東ローマ帝国の滅亡は西欧社会に多大な影響を与えるとともに、築城技術の変革も促した。
中世に普及した高い城壁を備える城塞では新しい攻囲戦術や軍事技術に対抗できないことが明らかとなり、[[星型要塞>四稜郭]]がさらに発展していくこととなる。

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|所在地|トルコ共和国・イスタンブール|
|現存状態|世界文化遺産・イスタンブール歴史地域|
|城郭構造|城郭都市|

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**三重城壁 [#ka09982f]

コンスタンティノープルの防備を特徴づけるものとして強力な三重城壁が挙げられるが、当初コンスタンティノープルの範囲はコンスタンティヌス1世が築いた城壁内にとどまっていた。
395年、最終的にローマ帝国が東西に分裂した後に東ローマ皇帝がコンスタンティノープルを居住地に定め、帝都として繁栄するようになったコンスタンティノープルは城壁の内側が市街地化し、やがて城壁の外側にも住居が立ち並ぶようになった。
410年にゲルマン人の一派西ゴート人が西ローマ帝国の都ローマを攻略したことは東ローマ帝国に衝撃を与え、さらに北方からアッティラ率いるフン人が帝国内に侵入しつつあったこともあり、東ローマ皇帝テオドシウス2世は新たな城壁を築くことを決定した。
412年に始まった工事は急ピッチで進められ、翌年には旧城壁の西方約1.5キロメートルの地点に、南はマルマラ海から北は金角湾まで、南北約7キロメートルに渡って半島を横断する大城壁が完成した。
「テオドシウスの城壁」と呼ばれるこの大城壁は厚さ約4.6メートル、高さは約13メートルあり、城壁の前面から約10メートル突出する形で高さ20メートル以上の城塔96棟が約55メートルの間隔で立ち並んだ。またテオドシウス1世が郊外に建てていた凱旋門を第一の門として、大規模な城門が6つ構えられた。
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こうして外敵からの攻撃に備えたコンスタンティノープルだったが、447年、アッティラがコンスタンティノープルへ進軍する姿勢を見せている最中に大地震が起こった。城壁は崩落し、城壁に配置されていた城塔もその半分以上である57棟が崩壊し、コンスタンティノープルはアッティラの接近を前に危機感に包まれた。
テオドシウスは城壁の修復に全力を挙げ、市民約1万6000人を動員して2ヶ月という短期間で城壁を修復しただけでなく、大城壁の外側にさらに城壁が築かれた。城壁に設けられた門の一つであるレギウス門には、ギリシア語で「60日で、誉れ高き皇帝の命令によって、近衛長官のコンスタンティヌスが城壁に城壁を付け加えた」、ラテン語で「テオドシウス皇帝の命令で、2ヶ月以内に、コンスタンティヌスはこの強大な城壁をみごとに建設した」と、短期間で強力な城壁を築いた偉業を称える碑文が刻まれている。
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従来の大城壁が内城壁と呼ばれたのに対し、その外側に築かれた城壁は外城壁と呼ばれ、厚さ約2メートル、高さ約7.5メートルで、高さ約10メートルの城塔がほぼ100メートルごとに置かれた。
外城壁がほぼ下階を持たなかったのと異なり内城壁は上階と下階、その中間の階に分かれ、中間の階へは下階から主城壁外の入口を通って、大城塔へは城壁上の通路から入ることができた。この大城塔への入口がある層と外城壁の上部との間には幅約18メートルの人工地盤が造られ、修復工事と外城壁の建設によって192棟の城塔が新たに築かれた。
外城壁の外側には幅約18メートル、深さは現在残っている最も深い部分で6~7メートルになる堀が掘られ、外城壁から約5メートル低くなったところに堀へと続く人工地盤が造られた。
この堀に沿って内岸壁城壁と呼ばれる狭間付きの胸壁を備えた低い城壁が築かれ、内岸壁城壁と外城壁との間にも幅約12メートルの人工地盤が造られた。この内岸壁城壁・外城壁・内城壁によって三重城壁が形成されたのである。
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この三重城壁の他にもマルマラ海と金角湾に沿った海岸にも一重の城壁が設けられた。金角湾方面の皇帝の宮殿が置かれていた地区はブラケルナイ地区と呼ばれ、三重城壁との接合点、宮殿を囲む部分はコンスタンティノープルの城壁のなかでも弱点と見なされた。またブラケルナイ地区に隣接するメソテイキオン地区も弱点とされ、オスマン帝国によるコンスタンティノープル包囲の際にはこれらの部分が集中的に狙われることとなる。
このように海側の城壁は陸側の三重城壁と比べると高さも防備もはるかに劣っていたが、テオドシウスが大城壁を建設するまでのコンスタンティノープルの主防衛線であり、大城壁建設以降も重要性は失われず改修が続けられた。
海の城壁の防御が比較的弱かった理由としては強力な海軍の存在があり、金角湾とマルマラ海には艦隊が配備されて海側からの攻撃に備えていた。また金角湾を横断するように鎖も設置され、湾内は封鎖されることとなった。
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このようにコンスタンティノープルはテオドシウスが築いた巨大な三重城壁と海岸城壁、そして金角湾とマルマラ海によって強力に防御され、その後千年以上続くことになる城塞都市コンスタンティノープルが完成したのである。

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&color(White,Maroon){コンスタンティノープルの陥落(クリックで表示)};
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**コンスタンティノープルの陥落 [#iba7ec97]

東西文明の十字路として地中海世界の中心に君臨したコンスタンティノープルは、その歴史のなかで度々外敵の攻撃を受けたが、テオドシウスの城壁をはじめとする強力な城壁がその攻撃を阻んできた。
559年にはスラヴ人に攻撃されたが、これはユスティニアヌス麾下の将軍ベリサリウスが撃退した。
ヘラクレイオス1世の治世ではササン朝ペルシアとの抗争で疲弊し、ペルシア遠征中の626年にはアヴァール人がコンスタンティノープルを包囲したが、これは留守を預かっていた総主教セルギオスが撃退した。
しかしヘラクレイオスはササン朝を破ったものの、新たに勃興したイスラームにヤルムーク河畔の戦いで大敗し、シリア・エジプトを奪われ失意のうちに死去した。
イスラームはコンスタンティノープルにも迫り、673~678年に五年間に渡って断続的に包囲し、717~718年にも包囲するが、コンスタンティノープルは強力な城壁とギリシア火で撃退し、バルカン半島は以後数世紀に渡ってイスラームから守られた。
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1204年には宮廷の内紛から第4回十字軍の侵入を許し、この時にテオドシウスの城壁と比べると高さも強度も劣る、金角湾沿いの一重城壁が弱いことが判明した。
この地区はブラケルナイ地区と呼ばれ、のちのオスマン帝国による包囲の際にも集中的に狙われた。
オスマン帝国は1299年に小アジアで建国され、14世紀にはバルカン半島へ進出してコンスタンティノープルを度々包囲し、東ローマ帝国はオスマン帝国の属国となるまで地位が低下することとなった。
東ローマ帝国はオスマン帝国からの独立を図るが、1394~1402年にかけてオスマン帝国スルタンの「雷帝」バヤジット1世が断続的にコンスタンティノープルを包囲したが、バヤジットがティムールに大敗したため包囲が解かれた。
その後再興したオスマン帝国はムラト2世が1422年にコンスタンティノープルを攻撃したが撃退された。
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1453年4月5日にオスマン帝国スルタンの「征服者」メフメト2世はバヤジットやムラトによる包囲の失敗を踏まえ、本格的なコンスタンティノープル攻略に着手した。
メフメト2世はボスポラス海峡のヨーロッパ側に築いた[[ルメリ・ヒサル]]を攻撃拠点とし、ヴェネツィア船やジェノヴァ船を監視しコンスタンティノープルへの海上補給を封鎖した。
また「ウルバンの巨砲」などの大砲でブラケルナイ地区や隣接するメソテイキオン地区に集中的に砲撃を加えたが、土塁で防御された城壁に砲弾の威力を殺され、城壁を破ることはできなかった。
坑道を掘ることによる地下からの攻撃も試みたが、守備兵は坑道の位置を把握して対応し、坑道戦は失敗した。
さらにオスマン帝国艦隊はジェノヴァ艦隊・ヴェネツィア艦隊に敗れ、メフメトは艦隊を山越えさせるという奇策も用いたが、決定的な効果は得られなかった。
このようにメフメトは様々な手段で約二ヶ月間の攻城戦を行ったが、火砲に対抗できるよう改良された三重城壁を破ることはできず、総攻撃はいずれも撃退された。
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ところが5月29日、集中攻撃により破損していたブラケルナイ地区の城壁に設けられた柵への攻撃の最中、これに対応していたジェノヴァ人指揮官ジュスティニアーニの負傷がコンスタンティノープルにとって致命傷となった。
ジュスティニアーニの戦線離脱によって守備兵も持ち場を離れて退却し始め、これを見たオスマン帝国兵が柵に殺到した。
東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は内城壁のケルコポルタ門の鍵を開けるように命じ、より早く守備兵が柵の守りにつけるようにしていたが、混乱の最中オスマン帝国兵がこれを見つけて逆に内城壁内に侵入した。
コンスタンティノープルの内城壁は兵員不足からほとんど防御されていなかったため、侵入したオスマン帝国兵の攻撃に対応できず、ついに東ローマ帝国千年の都として難攻不落を誇ったコンスタンティノープルは陥落した。

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