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アーグラ城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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ムガル帝国の国家体制を確立しその最盛期を現出した第3代皇帝アクバルによって築かれた、3代にわたるムガル皇帝の居城。「赤い城」を意味する「ラール・キラー」で有名な[[デリー城]]と同じく、アーグラ城もまた「ラール・キラー」の異名を持つ。
1558年にデリーからアーグラに遷都し、1565年からアーグラ城の建設を開始した。当時のアーグラにはロディー朝時代の煉瓦造りの城があったが破壊され荒廃しており、アクバルは「ラール・キラー」の由来となる赤い砂岩が新たな城を築いた。
この頃のムガル帝国は勢力拡大の途上で、アーグラ城は2.5キロメートルにおよぶ城壁に囲まれ、デリー門やアクバル門などの厳重な城門に守られた軍事基地の意味合いが強く、居住性は悪かった。そのためアクバルはアーグラ城の建設途中に新たな都城であるファテープル・スィークリー(勝利の町スィークリー)を建設して移り住んでいる。
アーグラ城が都城として本格的に整備されたのは第5代皇帝シャー・ジャハーンの時代で、建設事業に力を入れインド=イスラーム文化の黄金時代を築いたシャー・ジャハーンによって、アーグラ城は白大理石を多用した城へと増改築された。
シャー・ジャハーンはデリーに自身の名を冠した新首都「シャージャハーナーバード」を建設し、シャー・ジャハーンはアーグラとデリーを行き来するようになった。またシャー・ジャハーンは愛妃ムムターズ・マハルの死を悼んでアーグラに[[タージ・マハル]]を建設している。

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シャー・ジャハーンの晩年には帝位継承者争いが起こり、第6代皇帝となるアウラングゼーブによってシャー・ジャハーンはアーグラ城内の「囚われの塔」ムサンマン・ブルジュに幽閉された。その一室からはタージ・マハルがよく見え、シャー・ジャハーンは幽閉されてから8年間、アーグラ城から一歩も外に出ることなくタージ・マハルを眺めながらその生涯を終えた。
アウラングゼーブもまたアーグラ城に外郭の城壁を築き二重城壁の間に堀を設けるなどの増築を行ったが、その死によってムガル帝国の最盛期は終わり急速に衰退していった。アーグラ城はムガル帝国がデリーに遷都したことでその重要性を失い、農民の反乱や略奪、マラーター勢力の攻撃などによって荒廃し、 1857年のインド大反乱の際には戦闘の舞台となり多くの建造物が破壊された。

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|所在地|インド、ウッタル・プラデーシュ州アーグラ県アーグラ|
|現存状態|城壁、城門、宮殿など|
|城郭構造|平城|
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