高崎城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

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徳川家康配下の「徳川四天王」の一人で、「井伊の赤備え」を率いた猛将として知られる井伊直政の居城。
直政は小田原征伐での功によって上野国に所領を与えられ、当初は[[箕輪城]]を居城としていたが、かつての箕輪城の支城であり、三国街道と中山道が分岐する交通の要衝に位置した[[和田城]]の地に新たに城を築くこととなった。
慶長3年(1598年)に新城に入った直政は箕輪城から城下町を移し、地名を和田から高崎に改めて領内経営の中心とした。
直政は近世城郭としての改修を進めたが、関ヶ原の戦い後に[[佐和山城]]に移り、直政の時代には高崎城は完成しなかった。
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直政の後には酒井家次、松平康長、松平信吉が入って改修を続け、安藤重信が本格的な改修に着手し、この安藤氏による3代77年間に渡る大改修によって高崎城は近世城郭として整備された。
和田城があった西の丸から西曲輪群、榎曲輪にかけての部分は和田城の遺構を利用し、これらの曲輪と東側の二の丸が本丸を囲み、さらに二の丸の虎口には三の丸を設けるという、輪郭式と梯郭式が合わさった平城となった。
関東の城に多く見られるように、城の周囲はほぼ土塁で囲まれ、石垣はほとんど用いられなかった。
「御三階」「三階御櫓」と呼ばれたものが実質的な天守で、当時主流だった破風の無い層塔型天守とは異なり、千鳥破風が数多く並んでいるところが外見上の大きな特徴だった。
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安藤氏の後は大河内松平氏の輝貞が城主となるが江戸幕府6代将軍徳川家宣によって左遷され、家宣の側用人・間部詮房が城主となり、家宣の死によって詮房が失脚すると8代将軍徳川吉宗によって輝貞が城主に復帰し、以後明治維新に至るまで大河内松平氏が城主を務めた。

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|所在地|群馬県高崎市高松町|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|輪郭梯郭複合式平城|
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