水口岡山城 のバックアップソース(No.7)
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

豊臣政権による近江支配の拠点となった、同時期の近江では最大、近畿でも最大級の巨大城郭。
戦国期の甲賀郡は甲賀衆と呼ばれる小規模な領主が支配していたが、天正13年(1585年)に羽柴秀吉が「甲賀ゆれ」と呼ばれる甲賀衆の改易・解体を行い、家臣の中村一氏に水口岡山城を築かせ、甲賀郡を支配させた。
『矢川雑記』『水口藩士某覚書』によると、このとき[[三雲城]]より石垣が、矢川寺からは瓦などが転用されたとも伝わっている。
一氏は[[八幡山城]]の豊臣秀次の宿老として[[長浜城]]の山内一豊や[[佐和山城]]の堀尾吉晴などとともに近江支配の一翼を担い、水口岡山城は東海道を押さえる重要拠点となった。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

従来甲賀衆の城はほとんどが平地部あるいは尾根先端部に位置する小規模なものだったのに対して、水口岡山城は甲賀郡でも最大規模の独立丘陵全体を城郭化した大規模な山城だった。
標高283メートルの大岡山の頂部に主郭が設けられ、そこから東に一段低い位置に二の丸・三の丸が連なり、さらに東に一段低い位置に出丸が配置された。
城全体で見ても東側に小規模な曲輪が多数置かれ、竪堀や竪土塁も数多く存在することから、東側の防衛を重視した縄張と考えられる。
山麓部には堀で囲まれた外郭が広がっており御殿が置かれていたが、このように山頂部の主郭と山麓部の御殿からなる構造は同時期の八幡山城や佐和山城と同様であり、当時の近江における築城を反映しているといえる。
#br
水口岡山城では平成24年(2012年)度から本格的な発掘調査が進められ、大手道の枡形虎口で石垣が確認され、大手道に隣接する曲輪でも石垣が発見された。
主郭の南側斜面でも石垣が見つかり、主郭部の石垣は上下二段構造で下段は腰巻石垣と切岸、上段は高さ8~9メートルの高石垣であることが判明した。
また三の丸では城門とされる礎石や石垣などの遺構が見つかり、城門が軍事的性格の弱い構造だったため、三の丸は城主や重臣らの居住空間だったとされる。
一方で城の西側は石垣ではなく切岸となっていることが明らかとなり、水口岡山城は全山を総石垣の城としたわけではなく、主郭部や大手道など重要な部分に石垣を用いたと考えられている。
#br
一氏の転封後に城主となったのが増田長盛で、文禄4年(1595年)からは長束正家が城主となった。
『西川家文書』によると[[大溝城]]の天守を解体して水口岡山城に移築したとあり、これを裏付けるように水口岡山城では大溝城のものと同笵の瓦が出土している。
『西川家文書』にある花押が正家のものと考えられ、この文書の成立時期が文禄年間以降とされることから、正家の時代に移築をはじめ大規模な改修が行われたと考えられる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、徳川家康はこの地を直轄支配したが、間もなく水口岡山城は廃城となった。
寛永11年(1634年)には徳川家光が上洛する際の宿館として、水口岡山城の西に[[水口城]]が築かれている。
一般的にこちらの家光時代の城が「水口城」と呼ばれるが、豊臣期には水口岡山城を指して「水口城」と呼んでいた。
#br
現在の水口岡山城は破城や近代以降の市街地化による破壊のため、不明な部分が多い。
しかし発掘調査によって徐々に全容が明らかになってきており、また築城時期と廃城時期が明確で存城年数も限られていることから、豊臣期の城郭を考える上で貴重な存在であると認められ、平成29年(2017年)2月9日に「水口岡山城跡」として国の史跡に指定された。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|滋賀県甲賀市水口町|
|現存状態|曲輪、石垣、堀切、土塁など|
|城郭構造|連郭式山城|
*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS