唐津城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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日本三大松原の一つ、虹の松原が眼下に広がる景勝地の城で、鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる。
天正19年(1591年)に[[名護屋城]]の普請奉行を務めた寺沢広高は、のちに肥前唐津を与えられて長崎奉行となり、関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602年)に唐津城の築城を開始した。
築城の際には廃城となった名護屋城の資材を転用したとされ、普請に九州の諸大名が助力した名残として、柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀の名が残されている。
唐津湾に突き出た、西側で地続きとなる陸繋島の満島山に築かれ、東側は松浦川の流路を変更して唐津湾に流れ込むようにし、その先にはのちに「虹の松原」と呼ばれる防風林を植林し、これらに囲まれた内海が非常な良港となった。

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本丸は満島山の山頂部に設けられ、満島山から陸地へと続く平地部分が二の丸で、二の丸と橋で接続された陸地部分に三の丸が広がり、その南側に外曲輪が設けられる連郭式の縄張だった。
慶長13年(1608年)に完成し、寺沢広高は初代唐津藩主としてこの地を治め、新田開発を行うなど城下の整備に務めた。
しかし広高は[[島原城]]の松倉重政・勝家と同じく領内でキリスト教徒を厳しく弾圧し、領民には重税を課した。
特に天草領は実態の約2倍にあたる4万石と算定されたことからその徴税は過酷で、広高の子・堅高の代に島原の乱が起こる一因となった。
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島原の乱後に堅高は天草領を没収され、その約10年後の正保4年(1647年)に自殺したことで寺沢氏は断絶、唐津藩は一時天領となった。
慶安2年(1649年)に[[明石藩>明石城]]から大久保忠職が入って唐津藩は再興され、寺沢氏の悪政を正して藩政の安定に務めた。
忠職の養子・忠朝の代では百姓一揆を予防するために転村庄屋制度が定められ、庄屋が一定期間ごとに領内を転勤することで庄屋と農民の団結を弱めるこの制度は幕末まで存続した。
その後は大給松平氏3代、土井氏4代、水野氏4代、小笠原氏5代と頻繁に藩主家が交代し、小笠原長国の時代に明治維新を迎え廃城となった。

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|所在地|佐賀県唐津市東城内|
|現存状態|石垣、堀など|
|城郭構造|連郭式平山城|

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