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雑学
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いろいろな雑学を披露できる場です。
また知識を深める場でもあります。


たとえば・・・
「大刀」「太刀」ってなに?
「打刀」ってなに?
具足とかについて知りたい
城の防衛設備について教えてほしい
「官位」ってなに?どんな官位があるの?
「山陰道」とか「出羽」とかってどういうものなの?
などなど
疑問に答えてくれる人が現れることを期待して待ちましょう。


各城・各装備・各兜に関する個別的な雑学はそれぞれの個別ページでお願いします。
城娘アイテム

武具について Edit

平安時代に弓の名手で知られた源為朝は、弓を支える左手が矢を引き絞る右手より12センチ長かったとも言われます。
近藤好和氏の一連の著作によると、鎌倉時代までは騎馬武者はもっぱら弓矢で戦っていて、対抗策として馬を先に攻撃されるようになったので、南北朝のころから馬を降りて射撃したり、刀槍で戦ったりするようになったのだそうです。


だから馬上で使う長い太刀は、室町時代以降に一般的になる短めで徒歩戦闘用の打刀に比べると、兵器として実際に使うことは少なかったかもしれません。
江戸期には「定寸」といって刀の標準的な長さがあり、地方や流儀で多少の差があるようですが2尺3寸~2尺3寸5分(69~70cm)でした。
幕末動乱期には長い刀を実戦で試す武士もいて、やはりうまくいかなかったようです。


「三池光世」という刀を開発できますが、これは「正宗」「村正」のように刀工の名前です。
先祖が徳川家康から拝領した、葵の紋入りの「三池典太光世」を佩(は)いて活躍するのは、『古着屋総兵衛影始末』シリーズの主人公、大黒屋総兵衛。
他にも有名な刀の名前がそのまま使われているものがありますね。


脇差はもともと本差と対になった言葉で、1本だけ持っていて「脇」差も何もないものですが、江戸時代には武士以外でも護身用の短い刀は所持を許されたためこれらを差して呼ぶことがあり、「脇差」「小太刀」といった言葉の厳密な使い分けは難しいようです。
江戸時代に庶民が所持を許されるのは2尺(60cm)未満が目安で、この長さぎりぎりを狙ったものを長脇差と言い、博徒の典型的な持ち物でした。


太刀や打刀(本差)は両手刀です。ですから片手持ちの小太刀で斬撃を受け止めると力負けします。
上記の事情で小太刀での戦闘も江戸時代には研究され、道場もあったのですが、斬撃は受け流し(左から斬りつけられたら、受け止めながら右へステップ)刺突のチャンスをうかがうという、ちょっとスポーツにしづらい動きが基本でした。
とはいえ現在でも、全日本銃剣道連盟が短剣道の大会を主催しています。


「一族郎党」という言葉がありますが、領地を持つ武士が一族と奉公人のチームを連れて参戦してくるときは、その中に騎兵と歩兵が混じりあうことになります。
大名の権力・財力が増し、大名の雇う足軽部隊が集団戦闘をするようになったのが戦国期の新たな動きで、長柄槍はその代表的な武器でした。
長柄槍をひとりで構えても、ふところに飛び込まれればなすすべもありませんが、集団で穂先を上げ下げされると近づくのは容易ではありません。

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刀の分類は寸法で大ざっぱに分類されそれぞれに、太刀、打刀、脇差、短刀と区分されています。

  • 太刀
    刃渡りが二尺以上とされています。
    馬上での戦いを想定しており、反りが強く、刀身が長いのが特徴です。
    後述の打刀とよく似ており銘を切る位置などで区別されています。
    見分け方としては刃を下向きにして、太刀緒で腰から下げているのは概ね太刀です。
    刃を下向きにするのは馬上で抜きやすくするためでもあります。
    長さによって、太刀、大太刀(野太刀)、小太刀と更に分類されます。
    平安時代から作られはじめ、室町時代頃までは主流でしたが、徒戦が増え後述の打刀へと移っていきました。
    有名な天下五剣も全て太刀であり、それぞれ平安時代~鎌倉時代の作とされています。
    • 天下五剣
      童子切、鬼丸、三日月、大典太、数珠丸の五本。
  • 打刀
    刃渡りは二尺三寸前後の刀です。長さは時代によって変わっていました。
    室町時代から作られはじめ、徒戦用に作られた刀です。
    戦は馬上から歩兵による集団戦に移行し需要が増えたとされます。
    刃は上向きで、腰帯に差して帯刀していました。
    刀身中央での反りが強く、腰に帯びた状態で抜きやすいよう工夫がされています。
    後述の脇差に対して、本差とも呼ばれます。
  • 脇差
    刃渡りは一尺以上二尺未満とされています。
    本差しが使えない状況での予備の武器です。ゲームで言うところのメインに対するサブもしくはセカンダリです。
    当初は打刀(本差)に添えて脇に差す小刀を意味しており、江戸時代には大小の小と呼ばれています。
    (大小とは打刀と脇差の小刀をセットにした言い方で、大小の小とは小刀の方を意味しています)
  • 短刀
    長さ一尺以下の刀の総称です。
    所持の仕方から懐刀と呼ばれます。
    子供や女性の懐剣なども含まれています。

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木製の長柄の先に、先端をとがらせた刃を付けた穂を挿し込んだ武器。
穂の形状によって素槍、鎌槍、十文字槍、鉤槍、管槍など種類が分かれる。

  • 薙刀
    長刀とも書く。
    刃先が広く反り返った刀で、中心を長くして、長い柄を付けたもの。
    平安時代の末頃から歩兵や僧兵が人馬をなぎ払うのに用いたが、戦国時代には衰え、江戸時代には武家の女子が武道として習得しそれが今日にいたる。
  • 竹槍
    一揆御用達、農民の主戦力。
    竹の先端を鋭利になるよう切り落とし、火であぶる、油で揚げるなどして熱による硬化加工して作られた即席の槍。
    竹は手に入りやすく加工もしやすいため数もそろえやすい。
    前述の一揆や落ち武者狩りなどに使用された。

弓・石弓 Edit

律令制のもとで各地に置かれた「軍団」は、動員される側にとって負担が重い反面、唐・新羅への警戒や蝦夷との対立と関係がない地域では必要も小さく、東国と九州にだけ比較的後まで大規模なものが残りました。坂上田村麻呂が率いたのもこの種の戦力です。この軍団は基本的には歩兵編成であり、弩も持っていました。
しかし政府管理下の大規模な(歩兵)軍団が衰微し、騎馬武者を中心とする武士団が武力の中心になると、長弓を持ち機動する鎧武者に比べて弩の利点は薄れ、長弓の威力が上がるのに対してそのまま忘れられていきました。

鉄砲 Edit

最近では、鉄砲が1543年以前から日本に入ってきていた可能性もあるとされていますが、日本への伝来はヨーロッパで火縄銃が登場してからおよそ100年後のことでした。
戦国末期には早合(はやごう)と総称される1発分の装薬(弾を飛ばす火薬)と弾のセットが実用化され、現代の再現実験では再装填まで10秒を切った記録もありますが、同様の西欧の工夫が入ってきたのか独自の発展かは説が分かれています。


後ろから弾を込める小銃、金属薬莢、起爆薬・雷管による発火はすべて1800年以降に登場しました。
つまり1800年代前半から日本の幕末・維新期にかけ、西欧では怒涛の銃器革新が起こったのであり、幕末には中古ないし売れ残りの旧式銃を売りつけられる藩と最新式を手に入れる藩が混在しました。
ですから江戸時代になっても、しばらく日本の銃は世界の最新水準からそれほど遅れていなかったと言えるでしょう。


ただ火縄銃は密集隊形に適さなかったのに対し、江戸時代に西欧では火打石を使うフリントロック式小銃が登場しました。
また徴兵制をとる国が増え(イギリスには1916年まで徴兵制が敷かれなかったのが大きな例外です)、密集した大規模な小銃隊を槍隊と組み合わせ、やがて銃剣を使って両方を兼ねさせると言った運用面の進化に大きく後れを取ることになりました。
逆に言えばそれも戦国の世が過ぎてから相当あとのことでした。ヨーロッパの鎧騎士が傭兵隊と向き合うように、戦国期日本の鎧武者も鉄砲足軽隊との戦いを強いられ、火力と接近戦能力のバランスを試行錯誤していたわけです。

大砲 Edit

1576年、日本では大友宗麟がポルトガルの宣教師より購入したフランキ砲を「国崩し」と名付けて使ったのが大砲の初見とされます。
大坂夏の陣では、徳川家康がイギリスのカルバリン砲やセーカー砲、オランダの半カノン砲(半加農砲)を用いて、淀殿の侍女の命を奪ったことが和議の理由の一つとされます。
そして、幕末の第二次長州征伐や戊辰戦争によって、近代的な大砲による野戦や攻城戦が本格化したと言えます。

城について Edit

城を建てる目的 Edit

例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています(10巻より)。
重要な地域を制圧するための城がある一方で、当面の敵と戦う最前線としてだけ価値のある城(陣城)もありました。
陣城のなかでは、賤ヶ岳の戦いで用いられた玄蕃尾城がよく知られており、続日本100名城に選出されています。
また羽柴秀吉が鳥取城攻めの時に築いた太閤ヶ平も非常に大規模で緻密な構造の陣城と評価されます。
秀吉が関わった陣城とされる墨俣城の実相がどうだったのかは論争がありますが、美濃の斎藤氏が滅亡してしまえば、織田氏にとってここに砦を構える価値は下がってしまったでしょう。
逆に備中高松城は毛利氏領の東側にいた同盟者が次々に織田氏についたため、毛利氏の東部防衛ラインに乗ってしまった城です。


備中高松城は攻めにくい要害の地にありますが、だいたいそうした場所は城下町を発達させにくい不便なところです。
統治の拠点としては交通・通商の要衝であるほうがよいわけで、北近江(現在の滋賀県北東部)を所領として与えられた羽柴秀吉が、自らが攻め落として手に入れた小谷城(山城)を使わず長浜城(琵琶湖沿岸の平山城)に拠ったのは有名です。
江戸城も、徳川家康がもらった関八州ではそうした性格の土地ですね。


城は何よりも軍事拠点ですが、将兵が生活する場でもあります。だからしばしば「水の手」が攻防の焦点となり、飲料水を絶たれた城は戦闘力をも失ってしまったのです。
逆に兵糧と水があれば、包囲を打ち破れない劣勢な兵力でも、籠城することで救援や有利な情勢変化を待ったり、敵戦力を引き付けて他の場所で友軍を有利にしたりすることはできました。


京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。
すでに尼子氏の月山富田城は毛利氏に落とされており、遺臣たちは織田氏の応援を受けてこの争いに加わっていましたし、石山城の宇喜多氏、三木城の別所氏、鳥取城鹿野城の山名氏は両者に挟まれてしばしば陣営を変えていました。
三木城や鳥取城の籠城戦は、織田氏側が優勢な兵力を送り込む一方で籠城側の兵糧確保が焦点となる展開となりました。
城攻めと言いながら、周囲にあった支城を落として兵糧運搬ルートを絶つ地域制圧戦が大きな比重を持っていたわけですが、主城を落として抵抗をやめさせなければ地域制圧が完成しないということでもありました。

城の変遷 Edit

当初、城は山城が主流でした。あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。
戦国時代になると越前の一乗谷城を始めとして多くの城に城下町が形成されます。
しかしこれら山城では平地が少なく、城下町が発展しないというデメリットが生じます。また同時に、大多数の兵を駐留させるのが不可能でした。
経済面・軍事面両方の機能を備えた城をという事で、戦国中期から平山城が主流となります。そのさきがけとなったのが多聞山城だと言われています。
山城に比べ、防衛能力は落ちる為、石垣や新たな防衛施設等でそれを補い、当時普及し始めた鉄砲に対する対策も施されていきました。
そして戦が少なくなってきた戦国時代後期~江戸時代初期にはお城の主眼は所領統治の拠点となり、平城が多く作られました。
防衛技術の向上により平城でも十分な防衛能力が生まれた事や、軍事的中心というより政治的中心としての機能を備える必要がでてきた事などが由来します。


ただし、織田信長が清洲城(平城)→小牧山城(平山城、あるいは山城)→岐阜城(山城)→安土城(平山城、あるいは山城)と居城を移していったように、単純に山城から平城に主流が移ったとは言えない面もあります。

城の防衛設備 Edit

第一次大戦(1914〜1918年)では、丘・尾根の上をわざと手薄にして、敵が丘を越えたところを丘の下から一斉射撃する戦法がありました。
これは火砲の性能(弾丸の速度など)が上がっていたからできたことで、戦国期の鉄砲では高いところから打ち下ろす方が圧倒的に有利でした。
新府城の台詞にある「出構え」のように、高いところを築造・確保してカバーしあうと攻めにくい拠点になりました。
なるべく(高いところから)撃てるチャンスを大きくするように、城門への道は曲がりくねったものになり、城門への直接射撃をはばむよう壁が配置されたりしました。
また城内も入り組んだ配置になっており、敵の勢いを減じ、曲がり角などで上から弓や鉄砲で攻撃出来る様に設計されました。(でもあまり下を向く角度が大きいと、鉄砲の玉がコロコロと・・・・・・敵には内緒だよ!)
また、刀は右上から左下へ振り下ろす方が有利(威力を込められるし、心臓を狙える)であるため、敵に右に曲がらせるという工夫も多く見られます。
こうすると角の出会い頭、攻撃側は刀が石垣で引っかかり、城の防御側は右から振り下ろせ有利に戦えます。


こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に熊本城は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。


また、高いところが有利なら敵は登ろうとしますから、石積みをぴっちりと崩れにくくし、また垂直に近づけるよう努力しました。


秘密の抜け穴についてはっきりわかっている城はそれほどありません。なにしろ秘密なので仕方がないですね。
江戸城から抜け穴を通って西へ抜け、甲府城に向けて逃げる将軍のための時間稼ぎとして、新宿・百人町の鉄砲同心などが配置されていたのだという説がよく歴史雑誌に紹介されています。秘密ですよ。

チャシ・グスク Edit

上記で述べられているような城の他に蝦夷地(現在の北海道)にはチャシ、琉球(現在の沖縄)にはグスクという建造物もありました。
チャシは「柵」「囲い」などと訳され、16世紀~18世紀頃にアイヌ民族が祭司や集会の場として築いたと言われ、500以上あったことが確認されていますが、はっきりとは分かっていません。
城として用いられたことが分かっているチャシとしてはシベチャリチャシがあり、和人(アイヌ民族以外の日本人)に対抗するためアイヌ民族の首長・シャクシャインが用いています。


一方、グスクは12世紀~15世紀頃に築かれ、祭祀や居住のための施設も含めると300ほど確認されていますが、琉球王国の王城として存在したのが首里城です。
構造としては丸みを帯びた石垣が複雑な曲線を描き反りがなく、石造りのアーチ式の門を城門とし木造の楼閣を上げたものの、隅櫓に相当するものがないといった特徴がありました。
江戸期には薩摩藩の支配下に置かれたものの、その影響は受けずに中国風の独特な建築物を築いていたと評されています。

現実の城の数ってどれくらい? Edit

日本の城だけでも2万5千から5万ほど存在したとされます。日本100名城の候補に挙がった城だけでも478城あります。
また、海外にもヨーロッパ100名城と呼ばれる城などがあり、ネタ切れの心配はないと思われます。


ちなみに、数にかなり開きがあるのは、どこまでを一つの城と数えるのかという見解が城郭研究者の間でもまちまちだからです。
たとえば、真田丸をあくまで大坂城の一部と考えるのか、独立した一つの城として考えるのかといった問題があります。
また、史料に名前があるのみで遺構が見つかっていない、あるいは遺構があるのみで史料に名前がない城をカウントするか否かといった問題もあります。
要するに広い方に解釈すると5万ということになります。

三大築城名人 Edit

藤堂高虎、加藤清正、黒田如水(官兵衛)の三人がとりわけ優れた築城の名手として知られ、この3人をひっくるめて三大築城名人と現代では呼ばれています。
ただし、如水に関しては資料によってまちまちで、彼を省いて高虎、清正が二大築城名人として挙げられることもあります。
建築様式は清正、如水と高虎とで異なっており、前二者が「複雑化させた縄張りで侵入しにくくする」というものに対し後者は「深い堀と高い石垣で侵入を阻む」というものです。
また、清正は反った石垣を、高虎は前述のように深い堀、高い石垣を築くことを得意としており、それぞがの手がけた代表的な城に、熊本城伊賀上野城があります。

実際に行ってみたい! Edit

未実装城も含めて、いわゆる聖地巡礼をしてみたい場合は交通手段をよく確認するなど、しっかり事前準備をしましょう。
特に山城では熊が出没したり転倒・転落事故が発生したりすることもあり、実装城でも例があります。決められた登山道や案内係の注意を守りましょう。
動きやすい服装や靴にし、水分補給や汗拭きタオル、虫除けスプレー、暗くなりそうなら懐中電灯なども忘れずに。


また、観光地化していない城跡で大声で騒ぐなど、付近の住民の迷惑となる行為は控えましょう。私有地でも管理者のご好意により立ち入ることができる場合もありますが、立ち入り禁止の場合は無断侵入にならないようにしましょう。
そのような城でのマナーや散策の仕方、禁止行為などについて調べるには、西股総生『土の城指南』という書籍がおすすめです。

政治について Edit

官位 Edit

奈良時代・平安時代に朝廷が中央政府として機能していたころ、現在の日本政府にいろいろな部署があり官僚たちが勤めているように、朝廷の役人にも部署や地位・階級がありました。
年2回の定期異動である除目は貴族の大きな関心事でした。
宮廷貴族が武士を手なづけるために、また地方での実務を任せるために貴族としての官位を与えていたのが、戦国期になると朝廷・有力貴族に献金して官位をもらったり、勝手に名乗ったりするようになりました。


例えば織田信長の一族は代々当主が「弾正忠」(従六位)を名乗っていました。
室町幕府の名門・斯波氏の家臣となった際に朝廷から与えられた官位を、長期にわたり勝手に世襲したものです。
足利義昭と一緒に上洛したとき、織田信長は弾正少忠の正式な補任を受け、最終的には正二位右大臣・右近衛大将まで進みました(死ぬ前にそれらを辞し、死んでからさらに追贈がありましたが)。
三河国に任ぜられる朝廷官吏の最高位者である三河守の官位を、徳川家康は朝廷から正式に受けましたが、それはちょうど今川家の勢力を三河から追い出したタイミングでした。
このように官位の有無は実際の争いにも影響するものでした。


興味のある人は、Wikipediaで「少弐氏」「武家官位」の項を読んでみるといいでしょう。


「官位」の官は官職、位は位階です。このふたつはだいたい対応関係が決まっていて、朝廷での位階が上がると相応の官職につきましたが、急速に出世したときなど対応が崩れることがありました。
ゲームに登場する侍従は従五位下、近衛少将は正五位下が原則でした。足利義昭とともに上洛した織田信長が最初にもらった位階が従五位下、柴田勝家を倒し徳川家康を破った羽柴秀吉がやはり従五位下から官位を始めています。
なお本ゲームには出てきませんが、従五位下より下にも官位はあります。ただ、貴族として扱われるのは従五位下からだったようです。


儀式や伺候のために皇居・清涼殿に上がることを許される前提条件が、五位以上の官位を持っていることでした。「殿上人」としてのステータスが戦国大名には重要だったのでしょう。

 官位一覧

大臣・納言・参議 Edit

平清盛は太政大臣になりましたが、3ヶ月で辞職しました。失脚したのではありません。当時すでに太政大臣の具体的な仕事はほとんどなくなっていて、「太政大臣になったことがある」ことが重要だったのです。
ただし、当時すでに長男の平重盛が権大納言まで昇進していましたが。
のちに豊臣秀吉は大名たちに官位を大盤振る舞いしたこともあって、差をつけるためか太政大臣に長いこととどまりました。


左大臣、右大臣、内大臣はこの序列で政府の頂点に立ち、重要会議を主催しました。
会議のメンバーとなったのが大納言、中納言、参議といった人たちで、公家の家格は摂政・関白になれる家を筆頭に、大納言までなれる家など細かく決まっていました。
その下には弁官、少納言(侍従が兼任)といった書類作りや儀式運営の実務者がついており、参議に昇進したり、昇進後も兼任したりして実務と政治家貴族たちを結びました。


近衛府は朝廷の警備・護衛を役目とする官衙で、左右の近衛大将は大納言や左大臣が兼任し、中将以下は参議以上へ出世する家の子弟が主に務めました。
少し長官が格下で、御所内の区域と門を分担する左右の衛門府、兵衛府があり、武士の名前によくある「左衛門」「右衛門」といった呼称はここから来ています。

五畿七道 Edit

五畿七道とは日本の8つの地域の総称で区分けは以下のとおりです。

現在国名
畿内近畿地方中部大和・河内・和泉(757年に河内から分離)・摂津・山背(794年山城に改称)
東海道東海道地方及び関東地方(北部除く)伊勢・志摩・伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・甲斐・武蔵・安房・上総・下総・常陸
東山道中部地方中部及び東北地方近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽(712年に越後・陸奥から分離)
北陸道北陸地方若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡
山陽道中国地方南部播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門
山陰道中国地方北部丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・岩見・隠岐
南海道近畿地方南部及び四国地方紀伊・淡路・讃岐・阿波・伊予・土佐
西海道九州地方豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅(713年日向から分離)・対馬・壱岐

また、明治2年には北海道が新設されて五畿八道となった。

現在国名
北海道渡島・後志・胆振・日高・石狩・天塩・北見・十勝・釧路・根室・千島

国名・都道府県一覧 Edit

 長いので折りたたみ

令制国(律令国) Edit

尾張国には8つの郡があり、織田信長の時代にはふたつの織田家が4郡ずつを支配していて、織田信長の家はその一方のそのまた家臣という立場でした。
信長は親族と争って次々に倒し、尾張全体を支配するようになりますが、こうした「国-郡」は大宝律令などによって定められた統治の仕組み、つまり律令制の一部です。
それ以前から「国」という言葉はあったのですが、国や郡の構成が律令によってルールとして決まり、以後長いこと変更されなかったので、令制国(律令国)と呼ばれています。
よく国の数を「六十余州」と表現しますが、そのように境界が固定されたわけです。


郡の役人である郡司はそれぞれその地方に住んで世襲、国の役人である国司は中央から派遣というのが律令制度に基づく統治のコンセプトでした。
もともと国司のもとに軍団があったのですが、中央からは源氏、平家と言った貴族系の武士団(武家貴族)があらわれ、国司の最高位者である守(ただし親王任国である常陸、上野、上総は守もあるが、名目上親王が守を勤めているため、実質介が最高位者であるが、決して守がないわけではありません)としていろいろな国に赴任し、地方の武士団と関係を結んで、武士が兵権を握るとともに、すっかり貴族から分かれてしまいました。


鎌倉幕府以降、幕府はそれぞれの国に国司とは別に武士から守護を任命し、戦国大名の中には守護やその下の守護代から興った家がたくさんあります。
さすがに戦国期になってから国司が武力をたくわえて大名化した例は事実上ありませんが、飛騨の姉小路家は「代々国司をつとめた貴族の家系が武士に乗っ取られた」珍しい戦国大名です。

一揆 Edit

武家が団結して集団行為をすることです。(EUを想像するとわかりやすいかもしれません。)
勘違いされがちですが暴動を起こすことは一揆の中の土一揆であり、一揆=暴動ではありません。
農作業を放棄(ストライキ)して山へ逃げ込む農民もいます

有名なものは加賀一向一揆や長島一向一揆、毛利氏を中心とした安芸国人一揆があります。

石高 Edit

その土地の作物の収穫量、生産性を「石」という単位で表したもので、現代でいうところのGDP(国内総生産)のようなものです。
この量が多ければ多いほど、その土地、国は豊かであるといえましょう。
たとえば、当時最大の穀倉地帯であった加賀国は「加賀百万石」と称せられ、豊臣五大老のひとり、前田利家が預かっていた国として有名です。

城娘のセリフ Edit

殿様 Edit

「殿下」という敬称は古代中国で諸侯(まだ周王朝が王号を独占していた頃の話)に使われた敬称で、のち皇太子などにも使うようになり、律令制度のもとでも一部の皇族に限られました。
「殿」という敬称も当初は摂政・関白に限られていたと言いますから、「殿下」に準じた使われ方であったのでしょう。
しかしどこの国でも敬称はインフレを起こすもので、「枕草子」にはすでに「大納言殿」「中納言殿」といった表現が見られます。


平安時代から、本来天皇を指す「御所様」という敬称が高位貴族に降りてきて、「公方(様)」も公権力を行使する側が広く用いるようになり、特に鎌倉幕府の(実権のない)将軍はこの敬称で呼ばれました。
また、武家が「屋形(館)」を敬称として使うことも始まりました。


足利将軍家は自分も公方を称するとともに、「公方」「屋形」の敬称を一族や有力守護に認めました。家格を示す一種の称号となったわけです。
「殿様」はそれらの下の敬称として広く使われました。
「上様」も天皇などを指す言葉でしたが、徳川家康の家臣が日記の中で最盛期の織田信長を「上様」と表現しており、戦国時代には「殿様のその上の人」というニュアンスで使われることがあったようです。

外部スタッフ・関係者 Edit

音響演出 Edit

濱田弘之 Edit

本作の音響演出を担当。T's MUSIC所属。代表作は『戦国BASARA』シリーズ、『ダンボール戦機』シリーズなど。

ドット絵 Edit

タコヤキネコさん Edit

本作のドット絵の一部(30キャラほど)を担当。代表作は『千年戦争アイギス』、『テイルズ オブ ハーツ』など。

PV(『御城プロジェクト:RE ~CASTLE DEFENSE~ 城娘 いざ尋常に勝負!』)出演(リンク先音量注意) Edit

2016年12月20日に公開された実写PV。ロケ地は日光江戸村である。(ソースは「純血1441話 仮面女子『月野もあ 大暴れ!「御城プロジェクト:RE」 プロモーションムービー撮影風景」)

月野もあ Edit

一乗谷城役。
PV内では逆真空手初段の腕前を披露した。アイドルグループ『仮面女子』のメンバー。

渡辺万美(ばんび) Edit

馬場城役。
連続テレビ小説『あまちゃん』、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』、『ラブホの上野さん』などに出演。

浜田由梨 Edit

鳥取城役。
『月の恋人〜Moon Lovers〜』などに出演。

池田ゆり Edit

仁木館役。
『最高の離婚 Special 2014』などに出演。

秦瑞穂 Edit

黒川城役。
『轟轟戦隊ボウケンジャー』、『侍戦隊シンケンジャー』、『特命戦隊ゴーバスターズ』などに出演。

沖山翔也 Edit

水攻めの計略を受けた侵入者役。
『弱くても勝てます ~青志先生とへっぽこ高校球児の野望~』、『「マーベル ツムツム」TVCM 「玄人な2人」篇』、『闇金ウシジマくんpart3』などに出演。

その他 Edit

クライマックスの敵役として出演した男性は中国拳法の大会で優勝経験あり。
その他、DMM.comラボの社員らが出演。

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 城に行ってみたい!の項目、すごく配慮されていていいですね。城に行くと同時に、危険も隣り合わせの登山でもあるという心構えの大切さが伝わってきます。 -- 2016-12-01 (木) 14:51:24
    • ありがとう。まあwikiとして何かあったときに、忠告はしたというスタンスにしておいた方がいいなと思いつつ。 -- 2016-12-01 (木) 15:04:17
      • そうですよね、お城の情報を見て見に行ってみたいという人はいるでしょうし。実際に山城に行った方の体験談というのは何よりの情報になります。 -- 2016-12-01 (木) 15:09:38
  • とりあえずコメントだけにしておこう。城プロRE PVでセンターを務めたのは、『仮面女子』のメンバーで逆真空手初段の月野もあさん。PVの最後に戦っていた男性は、中国拳法の大会優勝経験あり。その他、DMM.comラボの社員らも出演。ソース -- 2016-12-22 (木) 08:43:43
    • 他の城娘を演じたのは、仮面女子ではないが、グラビアアイドルの模様。とりあえずソースのあるものは追記したいけど、過激派多いからやめた方がいいのかな? -- 2016-12-22 (木) 10:46:55
    • 他の城娘を演じたメンバーも判明しましたね。外部スタッフ(正確には出演者なので表現変えるかも)として追記しようかと思います。公式側からの情報を載せるなと言われても困るけど、載せ方についてご意見あればお願いします。 -- 2016-12-22 (木) 18:09:50
      • 万美(ばんび)さん=渡辺万美さん、『ラブホの上野さん』や『軍師官兵衛』『あまちゃん』などに出演。これはコメントだけに書いておくけど、元ヤンで根性焼きの跡がある。 -- 2016-12-22 (木) 23:04:28
    • アイドルのツイッターを載せるのはさすがにやめとこうかな。セクシー過ぎる方もいるし、凸されても困るし。各自調べるように。 -- 2016-12-22 (木) 23:21:43
      • はーい、ご配慮感謝です。 -- 2016-12-22 (木) 23:23:05
    • 追加完了です。情報は最低限に抑えたつもりですが、何か問題があればどうぞ。 -- 2016-12-22 (木) 23:43:48
  • 三大築城名人についても書きたいけど、色んな資料見てると、高虎と清正に+αされる形で如水が入ってるって形のが多いんだけど、どういう風に書けばいいかしら -- 2016-12-22 (木) 23:06:43
    • 思うままに書いてくだされば。貴殿の文章ならどんな形であっても支持しますよ!いつも楽しみにしています。 -- 2016-12-22 (木) 23:16:17
  • 加賀だけで百万石ってのも凄いよなあ -- 2016-12-25 (日) 20:33:42
  • 城プロRE PVで、水攻めの計略を受けたのは俳優の沖山翔也さんでした。 -- 2017-01-07 (土) 21:07:01
  • 関東と関西だと城に関する考えが違うんで地域ごとの城の特色とか入れると面白そう。 -- 2017-01-07 (土) 21:57:49
  • このページいる?城の雑学を求めてゲームやってるやつ居るの?知ったところで、このゲームが面白くなるわけではないんじゃね。 -- 2016-04-06 (水) 22:23:04
    • ここが不要なページだと本当に思っているのなら、編集会議室のページで意見を募るといいんじゃないかな。なぜ不要なのか、どうして不要なのかを客観的な視点で正しく説明出来るほどの裏付けが存在するというのが大前提だけどね。ゲームが面白くないから、勉強が嫌いだからという感情論では到底無理だと思うが。 -- 2016-04-07 (木) 15:23:31
    • まぁ、「隔離枠」なんだよ。関連性低いことでも城娘ページに書かれるよりはマシだから。 -- 2016-04-07 (木) 17:16:03
    • 政治についてを一通り読んだが、城プロ関係なさ過ぎてワロタ -- 2016-04-07 (木) 21:38:01
    • 面白くなるかどうかは個人の問題だからさておき、用語解説に近いもんだからあって損はないだろ。中学の日本史レベルの内容でも知らない人は知らないんだからさ。 -- 2016-04-08 (金) 11:04:41
      • 旧プロで領地があったから五畿七道は説明があってもいいと思うけど、
        城プロに出てこない用語を用語解説されてもなって思っちゃう。 -- 2016-04-09 (土) 07:41:36
    • まあ隔離枠なら納得だねw -- 2016-04-15 (金) 02:42:59
    • たしかにゲームは関係ないが、自分的には時間泥棒すぎる -- 2016-04-26 (火) 22:36:41
    • 旧版のころに「雑学」を半分以上書いたのは俺だ。誰かが立てたまま空白だった項目を埋めたので、編集会議室の方は見てなかったからそっちの経緯は知らん。旧版にだけあった「官位(の昇進)」に関連する記述が長いのは新規殿にはわけがわからんだろうとは思う。「三池光世」も引き継がれなかったしな。もう関係なくなった項目は、消されても俺は文句言わないよ。それからファンタジー世界のゲームでもよくあることだが、使われた時期の異なる武器が混在していて、前提になる戦い方が違う。そこを説明したほうがいいと思って、小項目の中身は空のままにして武器と時期・戦法の関係を書いたが、他人の立てた項目を消すのもあれだと思ってそのままにした記憶がある。がっかりした人にはすまん。 -- 2016-10-07 (金) 15:22:39
    • 関係ないと思ったら見なきゃいいだけなのに。じっくり読まないと文の内容が分からないってわけでもあるまいし。 -- 2016-10-09 (日) 00:29:00
    • むしろこういうのがなきゃわざわざ城の擬人化でやる必要がないな・・・今出てる城娘の数だけでも驚いてたのに総数見て呆れたw -- 2017-02-03 (金) 06:57:37
      • いっぱい有るってのは知ってたけど、万を越えるとは......ってちとびっくりした。 -- s 2017-02-09 (木) 10:20:45
    • べつに目くじら立てて「関係ないから不要だ」なんて言う必要もなかろう。どこのゲームWikiでも発生する問題かもしれないけど、ちょっと脱線したり、ゲームにない用語が登場したからって騒ぐ必要ある?雑学が存在することで格段にゲームがつまらなくなる訳でもなし、「ふーん、なるほど」で終わらせる寛容があっても良いと思う。 -- 2017-04-10 (月) 22:33:43
      • 一年前に立てられた木にわざわざ火を付けに行かなくても -- 2017-04-10 (月) 22:41:57
  • 城跡で騒ぐ人もいるのか、何しに行ってるんだろね -- 2017-04-07 (金) 12:08:26
    • いるとは言ってない。私有地になってる城跡とかあるから、その点の配慮。 -- 2017-04-07 (金) 12:23:47
      • なるほど、今後そういう人が出ないようにするための警告と言った所なんですね -- 2017-04-07 (金) 12:36:23
      • なら私有地になってる城跡とかあるから立ち入りには注意することとした方がいいのでは? -- 2017-04-07 (金) 12:45:49
      • 社にほへと問題で飛び火して「城は観光施設だから」という言説も見受けられますが、観光施設でない城跡もあるので念のためです。 -- 2017-04-07 (金) 12:48:44
      • 佐和山城は私有地だけど、一部を除いて入れるので、そのあたりの説明はどうしようかと思いつつ書籍に丸投げ。 -- 2017-04-07 (金) 12:52:56
      • 城郭研究者の本なら問題ないな、買ってみるか -- 2017-04-07 (金) 12:58:43
  • >各城・各装備・各兜に関する個別的な雑学はそれぞれの個別ページでお願いします。 そういや、装備に関する個別的な雑学なんてREでは誰も書いてないな。どうしようかしら。 -- 2017-04-10 (月) 21:04:38
    • やるなら装備一覧じゃなく新しくページ作ってどうぞ -- 2017-04-10 (月) 22:47:46
  • 遺構はあるけど史料に載ってない城はカウントしてるの? -- 2017-04-10 (月) 21:06:15
    • 無論そういうのもある。史料にも全くない新しい城はここ数年でも見つかってるからね。というか、ちゃんと史料に載ってる方が珍しい。 -- 2017-04-10 (月) 21:09:12
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