Top > 雑学

雑学
HTML ConvertTime 0.176 sec.

いろいろな雑学を披露できる場です。
また知識を深める場でもあります。


たとえば・・・
「大刀」「太刀」ってなに?
「打刀」ってなに?
具足とかについて知りたい
城の防衛設備について教えてほしい
「官位」ってなに?どんな官位があるの?
「山陰道」とか「出羽」とかってどういうものなの?
などなど
疑問に答えてくれる人が現れることを期待して待ちましょう。


各城・各装備・各兜に関する個別的な雑学はそれぞれの個別ページでお願いします。
城娘アイテム

武具について Edit

平安時代に弓の名手で知られた源為朝は、弓を支える左手が矢を引き絞る右手より12センチ長かったとも言われます。
中世の武具を専門とする歴史学者近藤好和氏の一連の著作によると、鎌倉時代までは騎馬武者はもっぱら弓矢で戦っていて、対抗策として馬を先に攻撃されるようになったので、南北朝のころから馬を降りて射撃したり、刀槍で戦ったりするようになったのだそうです。


だから馬上で使う長い太刀は、室町時代以降に一般的になる短めで徒歩戦闘用の打刀に比べると、兵器として実際に使うことは少なかったかもしれません。
江戸時代には「定寸」といって刀の標準的な長さがあり、地方や流儀で多少の差があるようですが2尺3寸~2尺3寸5分(69~70cm)でした。
幕末動乱期には長い刀を実戦で試す武士もいて、やはりうまくいかなかったようです。


旧城プロでは「三池光世」という刀を開発できましたが、これは「正宗」「村正」のように刀工の名前です。
先祖が徳川家康から拝領した、葵の紋入りの「三池典太光世」を佩(は)いて活躍するのは、『古着屋総兵衛影始末』シリーズの主人公、大黒屋総兵衛。
他にも有名な刀の名前がそのまま使われているものがありますね。


脇差はもともと本差と対になった言葉で、1本だけ持っていて「脇」差も何もないものですが、江戸時代には武士以外でも護身用の短い刀は所持を許されたためこれらを差して呼ぶことがあり、「脇差」「小太刀」といった言葉の厳密な使い分けは難しいようです。
江戸時代に庶民が所持を許されるのは2尺(60cm)未満が目安で、この長さぎりぎりを狙ったものを長脇差と言い、博徒の典型的な持ち物でした。


太刀や打刀(本差)は両手刀です。ですから片手持ちの小太刀で斬撃を受け止めると力負けします。
上記の事情で小太刀での戦闘も江戸時代には研究され、道場もあったのですが、斬撃は受け流し(左から斬りつけられたら、受け止めながら右へステップ)刺突のチャンスをうかがうという、ちょっとスポーツにしづらい動きが基本でした。
とはいえ現在でも、全日本銃剣道連盟が短剣道の大会を主催しています。


「一族郎党」という言葉がありますが、領地を持つ武士が一族と奉公人のチームを連れて参戦してくるときは、その中に騎兵と歩兵が混じりあうことになります。
大名の権力・財力が増し、大名の雇う足軽部隊が集団戦闘をするようになったのが戦国時代の新たな動きで、長柄槍はその代表的な武器でした。
長柄槍をひとりで構えても、ふところに飛び込まれればなすすべもありませんが、集団で穂先を上げ下げされると近づくのは容易ではありません。

Edit

刀の分類は寸法で大ざっぱに分類されそれぞれに、太刀、打刀、脇差、短刀と区分されています。

  • 太刀
    刃渡りが二尺以上とされています。
    馬上での戦いを想定しており、反りが強く、刀身が長いのが特徴です。
    後述の打刀とよく似ており銘を切る位置などで区別されています。
    見分け方としては刃を下向きにして、太刀緒で腰から下げているのは概ね太刀です。
    刃を下向きにするのは馬上で抜きやすくするためでもあります。
    長さによって、太刀、大太刀(野太刀)、小太刀と更に分類されます。
    平安時代から作られはじめ、室町時代頃までは主流でしたが、徒戦が増え後述の打刀へと移っていきました。
    有名な天下五剣も全て太刀であり、それぞれ平安時代~鎌倉時代の作とされています。
    • 天下五剣
      童子切、鬼丸、三日月、大典太、数珠丸の五本。
  • 打刀
    刃渡りは二尺三寸前後の刀です。長さは時代によって変わっていました。
    室町時代から作られはじめ、徒戦用に作られた刀です。
    戦は馬上から歩兵による集団戦に移行し需要が増えたとされます。
    刃は上向きで、腰帯に差して帯刀していました。
    刀身中央での反りが強く、腰に帯びた状態で抜きやすいよう工夫がされています。
    後述の脇差に対して、本差とも呼ばれます。
  • 脇差
    刃渡りは一尺以上二尺未満とされています。
    本差しが使えない状況での予備の武器です。ゲームで言うところのメインに対するサブもしくはセカンダリです。
    当初は打刀(本差)に添えて脇に差す小刀を意味しており、江戸時代には大小の小と呼ばれています。
    (大小とは打刀と脇差の小刀をセットにした言い方で、大小の小とは小刀の方を意味しています)
  • 短刀
    長さ一尺以下の刀の総称です。
    所持の仕方から懐刀と呼ばれます。
    子供や女性の懐剣なども含まれています。

Edit

木製の長柄の先に、先端をとがらせた刃を付けた穂を挿し込んだ武器です。
穂の形状によって素槍、鎌槍、十文字槍、鉤槍、管槍など種類が分かれます。
応仁の乱以降、足軽の装備は長槍が主となっていきました。

  • 薙刀
    長刀とも書きます。
    刃先が広く反り返った刀で、中心を長くして、長い柄を付けたものです。
    平安時代の末頃から歩兵や僧兵が人馬をなぎ払うのに用いましたが、戦国時代には衰え、江戸時代には武家の女子が武道として習得しそれが今日にいたります。
  • 竹槍
    一揆御用達、農民の主戦力です。
    竹の先端を鋭利になるよう切り落とし、火であぶる、油で揚げるなどして熱による硬化加工して作られた即席の槍です。
    竹は手に入りやすく加工もしやすいため数もそろえやすいものでした。
    前述の一揆や落ち武者狩りなどに使用されました。

弓・石弓 Edit

律令制のもとで各地に置かれた「軍団」は、動員される側にとって負担が重い反面、唐・新羅への警戒や蝦夷との対立と関係がない地域では必要も小さく、東国と九州にだけ比較的後まで大規模なものが残りました。坂上田村麻呂が率いたのもこの種の戦力です。この軍団は基本的には歩兵編成であり、弩も持っていました。
しかし政府管理下の大規模な(歩兵)軍団が衰微し、騎馬武者を中心とする武士団が武力の中心になると、長弓を持ち機動する鎧武者に比べて弩の利点は薄れ、長弓の威力が上がるのに対してそのまま忘れられていきました。


  • 長弓
    その名の通り長く大型の弓を指し、和弓やロングボウがこれに分類されます。短弓と比較すると使用する矢が長く、重い分高威力ですが、反面射程と速射性に問題がありました。
    その大きさから騎兵が使用するには不向きで、もっぱら歩兵の武器として使用されてきました。また、和弓は世界的にも非常に大型の弓で、上下非対称な構造が特徴的です。
  • 短弓
    長弓とは対照的に短く小型の弓を差します。こちらは取り回しの良さから騎馬での運用が主であり、大陸の騎馬民族を中心に使用されてきました。
  • 弩(石弓)
    いわゆるクロスボウであり、弦で矢を弾き飛ばす、という点では弓と同じですが、その実全くの別物で、どちらかというと鉄砲に近い武器です。
    最大の違いとしては、弓が高所から落下する位置エネルギーを威力の源としているのに対して、弩は弦で弾いた矢の運動エネルギーを威力の源としている点です。使用する矢も弓のものとは異なり、ボルトと呼ばれる太く、短いものを使用します。
    弓と比較すると極めて高い威力を持っており、射程も長いですが、殺傷力を発揮できる有効射程は弓に劣り、高威力の代償として張力が非常に強く、装填にかなりの力、または時間を要することから連射は出来ないという欠点も抱えていました。
    また、弓と比べると技術の習熟が短時間で済むという利点もあります。
    戦場に登場してからは、分厚い鎧も易々と貫通するその威力から、そういった鎧を装備する騎士階級からは(生け捕りにして身代金を要求する当時の流儀にそぐわない、一兵卒でも簡単に操作でき、容易に騎士という特権階級を打倒しうるなどの理由から)忌み嫌われており、「非人道的である」という理由でキリスト教徒に対して使用を禁止する旨の法令が出されたこともあるほどでした。

鉄砲 Edit

最近では、鉄砲が1543年以前から日本に入ってきていた可能性もあるとされていますが、日本への伝来はヨーロッパで火縄銃が登場してからおよそ100年後のことでした。
戦国末期には早合(はやごう)と総称される1発分の装薬(弾を飛ばす火薬)と弾のセットが実用化され、現代の再現実験では再装填まで10秒を切った記録もありますが、同様の西欧の工夫が入ってきたのか独自の発展かは説が分かれています。


後ろから弾を込める小銃、金属薬莢、起爆薬・雷管による発火はすべて1800年以降に登場しました。
つまり1800年代前半から日本の幕末・維新期にかけ、西欧では怒涛の銃器革新が起こったのであり、幕末には中古ないし売れ残りの旧式銃を売りつけられる藩と最新式を手に入れる藩が混在しました。
ですから江戸時代になっても、しばらく日本の銃は世界の最新水準からそれほど遅れていなかったと言えるでしょう。


ただ火縄銃は密集隊形に適さなかったのに対し、江戸時代に西欧では火打石を使うフリントロック式小銃が登場しました。
また徴兵制をとる国が増え(イギリスには1916年まで徴兵制が敷かれなかったのが大きな例外です)、密集した大規模な小銃隊を槍隊と組み合わせ、やがて銃剣を使って両方を兼ねさせると言った運用面の進化に大きく後れを取ることになりました。
逆に言えばそれも戦国の世が過ぎてから相当あとのことでした。ヨーロッパの鎧騎士が傭兵隊と向き合うように、戦国期日本の鎧武者も鉄砲足軽隊との戦いを強いられ、火力と接近戦能力のバランスを試行錯誤していたわけです。

大砲 Edit

1576年、日本では大友宗麟がポルトガルの宣教師より購入したフランキ砲を「国崩し」と名付けて使ったのが大砲の初見とされます。
大坂夏の陣では、徳川家康がイギリスのカルバリン砲やセーカー砲、オランダの半カノン砲(半加農砲)を用いて、淀殿の侍女の命を奪ったことが和議の理由の一つとされます。
そして、幕末の第二次長州征伐や戊辰戦争によって、近代的な大砲による野戦や攻城戦が本格化したと言えます。

城について Edit

現実の城年表 Edit

時期概要
弥生時代吉野ヶ里など環濠集落の出現。
大化3年(647年)渟足柵設置。記録上最初の古代城柵。
天智天皇2年(663年)白村江の戦い。以後、唐・新羅の侵攻に備えた大野城など古代山城の出現。
大宝元年(701年)大宰府、政府機関として確立。
和銅3年(710年)平城京に遷都、奈良時代の始まり。
神亀元年(724年)多賀城築城。古代城柵の代表例とされる。
延暦13年(794年)平安京に遷都、平安時代の始まり。
弘仁2年(811年)徳丹城設置。記録上最後の古代城柵。
10世紀後半大鳥井山築城。初期の山城の出現。
治承4年(1180年)

建久3年(1192年)
鎌倉幕府の成立。中世山城の出現。
元弘元年(1331年)後醍醐天皇、笠置山城で挙兵。南北朝時代の幕開け。山岳寺院の活用。守護館の出現。
明徳3年(1392年)南北朝の合一。南北朝時代の終焉。
応仁元年(1467年)

文明9年(1477年)
応仁の乱による戦国時代の幕開け。籠城戦の本格化。大名系城郭の広がり。
天正7年(1579年)織田信長による安土城の天主建築を契機とする織豊系城郭の出現。
天正10年(1582年)明智光秀の謀反により織田信長横死。(本能寺の変)
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城開城、奥州仕置の完了。戦国時代の終焉。
慶長5年9月15日
(1600年10月21日)
関ヶ原の戦い終戦。以後、江戸城名古屋城など徳川政権による天下普請の開始。
慶長20年5月8日
(1615年6月4日)
大坂の陣の終結。徳川家康による天下統一。
慶長20年6月13日
(1615年8月7日)
江戸幕府による一国一城令。
嘉永6年(1853年)品川台場など台場の出現。
文久2年(1863年)最後の日本式城郭石田城が完成。
慶応4年1月2日
(1868年1月26日)
戊辰戦争の勃発。
明治2年5月18日
(1869年6月27日)
五稜郭の旧幕府軍が新政府軍に降伏。戊辰戦争の終結。
明治4年7月14日
(1871年8月29日)
明治政府による廃藩置県。
明治4年8月20日
(1871年8月29日)
明治政府、仙台城江戸城大坂城熊本城に鎮台を設置。
明治6年1月14日
(1873年1月14日)
明治政府による廃城令。
明治6年1月14日
(1873年1月14日)
明治政府、名古屋城広島城に鎮台を設置。
明治10年9月24日
(1877年9月24日)
西南戦争終結。熊本城の戦い。

城を建てる目的 Edit

例えばコミックス『センゴク一統記』には賤ヶ岳の戦いで両軍が小さな砦を築き合った様子が描かれています(10巻より)。
重要な地域を制圧するための城がある一方で、当面の敵と戦う最前線としてだけ価値のある城(陣城)もありました。
陣城のなかでは、賤ヶ岳の戦いで用いられた玄蕃尾城がよく知られており、続日本100名城に選出されています。
また羽柴秀吉が鳥取城攻めの時に築いた太閤ヶ平も非常に大規模で緻密な構造の陣城と評価されます。
秀吉が関わった陣城とされる墨俣城の実相がどうだったのかは論争がありますが、美濃の斎藤氏が滅亡してしまえば、織田氏にとってここに砦を構える価値は下がってしまったでしょう。
逆に備中高松城は毛利氏領の東側にいた同盟者が次々に織田氏についたため、毛利氏の東部防衛ラインに乗ってしまった城です。


備中高松城は攻めにくい要害の地にありますが、だいたいそうした場所は城下町を発達させにくい不便なところです。
統治の拠点としては交通・通商の要衝であるほうがよいわけで、北近江(現在の滋賀県北東部)を所領として与えられた羽柴秀吉が、自らが攻め落として手に入れた小谷城(山城)を使わず長浜城(琵琶湖沿岸の平城)に拠ったのは有名です。
江戸城も、徳川家康がもらった関八州ではそうした性格の土地ですね。


城は何よりも軍事拠点ですが、将兵が生活する場でもあります。だからしばしば「水の手」が攻防の焦点となり、飲料水を絶たれた城は戦闘力をも失ってしまったのです。
逆に兵糧と水があれば、包囲を打ち破れない劣勢な兵力でも、籠城することで救援や有利な情勢変化を待ったり、敵戦力を引き付けて他の場所で友軍を有利にしたりすることはできました。


京都(山城)までを確保した織田氏が丹波や播磨に進出し、はるか西方にいる毛利氏との争いが始まったころでした。
すでに尼子氏の月山富田城は毛利氏に落とされており、遺臣たちは織田氏の応援を受けてこの争いに加わっていましたし、石山城の宇喜多氏、三木城の別所氏、鳥取城鹿野城の山名氏は両者に挟まれてしばしば陣営を変えていました。
三木城や鳥取城の籠城戦は、織田氏側が優勢な兵力を送り込む一方で籠城側の兵糧確保が焦点となる展開となりました。
城攻めと言いながら、周囲にあった支城を落とし、陣城群を築いて包囲網を形成し、兵糧運搬ルートを絶つ地域制圧戦が大きな比重を持っていたわけですが、主城を落として抵抗をやめさせなければ地域制圧が完成しないということでもありました。

城の変遷 Edit

当初、城は山城が主流でした。山岳寺院を活用でき、あまり手を施さなくても防衛に適していたからです。
戦国時代になると越前の一乗谷城を始めとして多くの城に城下町が形成されます。
しかしこれら山城では平地が少なく、城下町が発展しないというデメリットが生じます。また同時に、大多数の兵を駐留させるのは上杉氏の春日山城、三好氏の飯盛山城、尼子氏の月山富田城、毛利氏の吉田郡山城、長宗我部氏の岡豊城などのように、大名クラスの巨大な山城でもない限り不可能でした。
経済面・軍事面両方の機能を備えた城をという事で、戦国時代中期から平山城が主流となります。そのさきがけとなったのが松永久秀の多聞山城だと言われています。
山城に比べ、平山城は防衛能力は落ちる為、石垣や新たな防衛施設等でそれを補い、当時普及し始めた鉄砲に対する対策も施されていきました。
そして戦が少なくなってきた戦国時代後期~江戸時代初期にはお城の主眼は所領統治の拠点となり、平城が多く作られました。
防衛技術の向上により平城でも十分な防衛能力が生まれた事や、軍事的中心というより政治的中心としての機能を備える必要がでてきた事などに由来します。


ただし、織田信長が清洲城(平城)→小牧山城(平山城、あるいは山城)→岐阜城(山城)→安土城(平山城、あるいは山城)と居城を移していったように、単純に山城から平城に主流が移ったとは言えない面もあります。

城の防衛設備 Edit

第一次大戦(1914〜1918年)では、丘・尾根の上をわざと手薄にして、敵が丘を越えたところを丘の下から一斉射撃する戦法がありました。
これは火砲の性能(弾丸の速度など)が上がっていたからできたことで、戦国時代の鉄砲では高いところから打ち下ろす方が圧倒的に有利でした。
新府城の台詞にある「出構え」のように、高いところを築造・確保してカバーしあうと攻めにくい拠点になりました。
なるべく(高いところから)撃てるチャンスを大きくするように、城門への道は曲がりくねったものになり、城門への直接射撃をはばむよう壁が配置されたりしました。
また城内も入り組んだ配置になっており、敵の勢いを減じ、曲がり角などで上から弓や鉄砲で攻撃出来る様に設計されました。(でもあまり下を向く角度が大きいと、鉄砲の玉がコロコロと・・・・・・敵には内緒ですよ!)
また、刀は右上から左下へ振り下ろす方が有利(威力を込められるし、心臓を狙える)であるため、敵に右に曲がらせるという工夫も多く見られます。
こうすると角の出会い頭、攻撃側は刀が石垣で引っかかり、城の防御側は右から振り下ろせ有利に戦えます。


こういった防衛設計は戦国時代後期の城に多く取り入れられ、特に熊本城は明治時代の西南戦争でその有用性を実証しました。


また、高いところが有利なら敵は登ろうとしますから、石積みをぴっちりと崩れにくくし、また垂直に近づけるよう努力しました。


秘密の抜け穴についてはっきりわかっている城はそれほどありません。なにしろ秘密なので仕方がないですね。
江戸城から抜け穴を通って西へ抜け、甲府城に向けて逃げる将軍のための時間稼ぎとして、新宿・百人町の鉄砲同心などが配置されていたのだという説がよく歴史雑誌に紹介されています。秘密ですよ。


 その他いろいろ

チャシ・グスク Edit

上記で述べられているような城の他に蝦夷地(現在の北海道)にはチャシ、琉球(現在の沖縄)にはグスクという建造物もありました。
チャシは「柵」「囲い」などと訳され、16世紀~18世紀頃にアイヌ民族が祭司や集会の場として築いたと言われ、500以上あったことが確認されていますが、はっきりとは分かっていません。
城として用いられたことが分かっているチャシとしてはシベチャリチャシがあり、和人(アイヌ民族以外の日本人)に対抗するためアイヌ民族の首長・シャクシャインが用いています。


一方、グスクは12世紀~15世紀頃に築かれ、祭祀や居住のための施設も含めると300ほど確認されていますが、琉球王国の王城として存在したのが首里城です。
構造としては丸みを帯びた石垣が複雑な曲線を描き反りがなく、石造りのアーチ式の門を城門とし木造の楼閣を上げたものの、隅櫓に相当するものがないといった特徴がありました。
江戸時代には薩摩藩の支配下に置かれたものの、その影響は受けずに中国風の独特な建築物を築いていたと評されています。

ヨーロッパの主な城郭形式 Edit

日本には馴染みのない城郭形式に「城塞都市」というものがあります。海外、特にヨーロッパで多く見られる形式で、古くは紀元前10000年からあると言われているから驚きです。
現在確認されているもっとも古い城塞都市にイェリコ(現パレスチナ自治区領内)があり、その誕生は紀元前9000年ごろと言われています。
都市機能も十分発達し、近隣地域との貿易も盛んだったためかなり豊かな街でした。城塞化が進んだのは誕生から約1000年後、財産の防衛のため必要に駆られた結果でした。


他国・他地域においても理由はあまり変わりません。諸外国からの防衛と都市機能発展のため城塞都市が次々と形成されました。
中国では長安城のような都城が、中央アジアでは「バリク」と呼ばれる城壁を持つ都市が築かれました。
ヨーロッパでは、古代ローマが各地に築いた植民市や軍駐屯地は居住区を城壁で囲み、その外の異民族に対して防御していました。
9世紀の終わり頃までヨーロッパには独立した城と呼べるものはあまりなく、都市や集落の周りに城壁あるいは市壁を築いたこのような城塞都市が主流を占めていました。
城壁や市壁を新設することも12世紀頃までは盛んでした。しかし、当然ながら時代とともに防衛機能の質・手段が徐々に変わってきます。


ヨーロッパの城郭形式いろいろ(長いです)

 主な城郭形式

要塞のたそがれ Edit

 フランスが作ったマジノ線は、ほんの一部がドイツ軍と戦っただけですが、攻撃手段の発達にもかかわらずよく耐えました。唯一ラ・フェルテの砲兵陣地が落ちましたが、これは内部で火災が発生し、一酸化炭素中毒で守備兵が全滅したためでした。

 第2次大戦では、戦車の砲塔を地面に据えたり、戦車そのものを埋めたりして防御に優れた陣地を速成することがよくありました。これらはコンクリートと鉄で固められた要塞と違って、上から大口径の砲弾が降ってきたらあまり防御力はありませんでした。ドイツはPanzernestと呼ばれる、重さ1.4トンの鉄とコンクリートでできた可動陣地を工場で作り、馬車や自動車で現地に運び、穴を掘って埋めました。兵士2名が機関銃と銃弾5000発を持ってこもれる銃塔で、当時の説明書には「47ミリ戦車砲までははじける」と書いてありました。

 地下施設に対して有効な特殊爆弾をはじめとして、要塞を攻撃する手段が発達した結果、固定要塞は作られなくなってきました。とはいえ重要人物や確保したい地域がなくなるはずもなく、「所在を知られた要塞」が消えたと言うべきかもしれません。

現実の城の数ってどれくらい? Edit

日本の城だけでも2万5千から5万ほど存在したとされます。日本100名城の候補に挙がった城だけでも478城あります。
また、海外にもヨーロッパ100名城と呼ばれる城などがあり、ネタ切れの心配はないと思われます。


ちなみに、数にかなり開きがあるのは、どこまでを一つの城と数えるのかという見解が城郭研究者の間でもまちまちだからです。
たとえば、真田丸をあくまで大坂城の一部と考えるのか、独立した一つの城として考えるのかといった問題があります。
また、史料に名前があるのみで遺構が見つかっていない、あるいは遺構があるのみで史料に名前がない城をカウントするか否かといった問題もあります。
要するに広い方に解釈すると5万ということになります。

三大築城名人 Edit

藤堂高虎、加藤清正、黒田如水(官兵衛)の三人がとりわけ優れた築城の名手として知られ、この3人をひっくるめて三大築城名人と現代では呼ばれています。
ただし、如水に関しては資料によってまちまちで、彼を省いて高虎、清正が二大築城名人として挙げられることもあります。
建築様式は清正、如水と高虎とで異なっており、前二者が「複雑化させた縄張りで侵入しにくくする」というものに対し後者は「深い堀と高い石垣で侵入を阻む」というものです。
また、清正は反った石垣を、高虎は前述のように深い堀、高い石垣を築くことを得意としており、それぞれの手がけた代表的な城に、熊本城伊賀上野城があります。

実際に行ってみたい! Edit

未実装城も含めて、いわゆる聖地巡礼をしてみたい場合は交通手段をよく確認するなど、しっかり事前準備をしましょう。
特に山城では熊が出没したり転倒・転落事故が発生したりすることもあり、実装城でも例があります。決められた登山道や案内係の注意を守りましょう。
動きやすい服装や靴にし、水分補給や汗拭きタオル、虫除けスプレー、暗くなりそうなら懐中電灯なども忘れずに。


また、観光地化していない城跡で大声で騒ぐなど、付近の住民の迷惑となる行為は控えましょう。私有地でも管理者のご好意により立ち入ることができる場合もありますが、立ち入り禁止の場合は無断侵入にならないようにしましょう。
そのような城でのマナーや散策の仕方、禁止行為などについて調べるには、戦国史学者の西股総生氏の著作『土の城指南』という書籍がおすすめです。

水城の定義について Edit

歴史紀行作家の中山良昭氏の著作『オールカラーでわかりやすい! 日本の城』より引用。

水城、海城には海面、湖面そのものを濠の代わりとしたり、海水、湖水を濠に引き込んで、防衛のために利用する側面と、港湾の監視と水軍、水運の監視と水軍、水運の管理という両面の目的があります。

城の定義について Edit

城には役割に応じて本城・支城・出城・境目の城・つなぎの城などがあります。
本城;領域支配の中心となる当主の居城。安土・躑躅ヶ崎館・春日山など。いわゆる都道府県庁
支城:領域支配を行う時いくつかに分けて支配することがあり、その中心の城。北ノ庄・坂本・長浜など。いわゆる区市町村庁
出城:本城や支城を守ったり兵糧など別置のため少し離れた所や連結させて築いた城。真田丸など。いわゆる区市町村庁の支部や別館
境目の城:領土の最前線に築かれた城。そこから領土が広まれば支城になったりした。佐和山・山中など。いわゆる国境警備所
つなぎの城:本城や支城など緊急時のためのろし台や連絡人が詰めていた城。飛山など。いわゆる防災無線のスピーカー

政治について Edit

官位 Edit

奈良時代・平安時代に朝廷が中央政府として機能していたころ、現在の日本政府にいろいろな部署があり官僚たちが勤めているように、朝廷の役人にも部署や地位・階級がありました。
年2回の定期異動である除目は貴族の大きな関心事でした。
宮廷貴族が武士を手なづけるために、また地方での実務を任せるために貴族としての官位を与えていたのが、戦国時代になると朝廷・有力貴族に献金して官位をもらったり、勝手に名乗ったりするようになりました。


例えば織田信長の一族は代々当主が「弾正忠」(従六位)を名乗っていました。
室町幕府の名門・斯波氏の家臣となった際に朝廷から与えられた官位を、長期にわたり勝手に世襲したものです。
足利義昭と一緒に上洛したとき、織田信長は弾正少忠の正式な補任を受け、最終的には正二位右大臣・右近衛大将まで進みました(死ぬ前にそれらを辞し、死んでからさらに追贈がありましたが)。
三河国に任ぜられる朝廷官吏の最高位者である三河守の官位を、徳川家康は朝廷から正式に受けましたが、それはちょうど今川氏の勢力を三河から追い出したタイミングでした。
このように官位の有無は実際の争いにも影響するものでした。


興味のある人は、Wikipediaで「少弐氏」「武家官位」の項を読んでみるといいでしょう。


「官位」の官は官職、位は位階です。このふたつはだいたい対応関係が決まっていて、朝廷での位階が上がると相応の官職につきましたが、急速に出世したときなど対応が崩れることがありました。
ゲームに登場する侍従は従五位下、近衛少将は正五位下が原則でした。足利義昭とともに上洛した織田信長が最初にもらった位階が従五位下、柴田勝家を倒し徳川家康を破った羽柴秀吉がやはり従五位下から官位を始めています。
なお本ゲームには出てきませんが、従五位下より下にも官位はあります。ただ、貴族として扱われるのは従五位下からだったようです。


儀式や伺候のために皇居・清涼殿に上がることを許される前提条件が、五位以上の官位を持っていることでした。「殿上人」としてのステータスが戦国大名には重要だったのでしょう。

 官位一覧

大臣・納言・参議 Edit

平清盛は太政大臣になりましたが、3ヶ月で辞職しました。失脚したのではありません。当時すでに太政大臣の具体的な仕事はほとんどなくなっていて、「太政大臣になったことがある」ことが重要だったのです。
ただし、当時すでに長男の平重盛が権大納言まで昇進していましたが。
のちに豊臣秀吉は大名たちに官位を大盤振る舞いしたこともあって、差をつけるためか太政大臣に長いこととどまりました。


左大臣、右大臣、内大臣はこの序列で政府の頂点に立ち、重要会議を主催しました。
会議のメンバーとなったのが大納言、中納言、参議といった人たちで、公家の家格は摂政・関白になれる家を筆頭に、大納言までなれる家など細かく決まっていました。
その下には弁官、少納言(侍従が兼任)といった書類作りや儀式運営の実務者がついており、参議に昇進したり、昇進後も兼任したりして実務と政治家貴族たちを結びました。


近衛府は朝廷の警備・護衛を役目とする官衙で、左右の近衛大将は大納言や左大臣が兼任し、中将以下は参議以上へ出世する家の子弟が主に務めました。
少し長官が格下で、御所内の区域と門を分担する左右の衛門府、兵衛府があり、武士の名前によくある「左衛門」「右衛門」といった呼称はここから来ています。

五畿七道 Edit

五畿七道とは日本の8つの地域の総称で区分けは以下のとおりです。

現在国名
畿内近畿地方中部大和・河内・和泉(757年に河内から分離)・摂津・山背(794年山城に改称)
東海道東海道地方及び関東地方(北部除く)伊勢・志摩・伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・甲斐・武蔵・安房・上総・下総・常陸
東山道中部地方中部及び東北地方近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽(712年に越後・陸奥から分離)
北陸道北陸地方若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡
山陽道中国地方南部播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門
山陰道中国地方北部丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・岩見・隠岐
南海道近畿地方南部及び四国地方紀伊・淡路・讃岐・阿波・伊予・土佐
西海道九州地方豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅(713年日向から分離)・対馬・壱岐

また、明治2年(1869年)には北海道が新設されて五畿八道となりました。

現在国名
北海道渡島・後志・胆振・日高・石狩・天塩・北見・十勝・釧路・根室・千島

国名・都道府県一覧 Edit

 長いので折りたたみ

令制国(律令国) Edit

尾張国には8つの郡があり、織田信長の時代にはふたつの織田家が4郡ずつを支配していて、織田信長の家はその一方のそのまた家臣という立場でした。
信長は親族と争って次々に倒し、尾張全体を支配するようになりますが、こうした「国-郡」は大宝律令などによって定められた統治の仕組み、つまり律令制の一部です。
それ以前から「国」という言葉はあったのですが、国や郡の構成が律令によってルールとして決まり、以後長いこと変更されなかったので、令制国(律令国)と呼ばれています。
よく国の数を「六十余州」と表現しますが、そのように境界が固定されたわけです。
この令制国は戸籍・郵便等の地名表記から外されたことにより急速に廃れましたが、現在も法律上廃止されておらず、駅名や名物の名前などで残っています。


郡の役人である郡司はそれぞれその地方に住んで世襲、国の役人である国司は中央から派遣というのが律令制度に基づく統治のコンセプトでした。
もともと国司のもとに軍団があったのですが、中央からは源氏、平家と言った貴族系の武士団(武家貴族)があらわれ、国司の最高位者である守(ただし親王任国である常陸、上野、上総は守もあるが、名目上親王が守を勤めているため、実質介が最高位者であるが、決して守がないわけではありません)としていろいろな国に赴任し、地方の武士団と関係を結んで、武士が兵権を握るとともに、すっかり貴族から分かれてしまいました。


鎌倉幕府以降、幕府はそれぞれの国に国司とは別に武士から守護を任命し、戦国大名の中には守護やその下の守護代から興った家がたくさんあります。
さすがに戦国時代になってから国司が武力をたくわえて大名化した例は事実上ありませんが、飛騨の姉小路家は「代々国司をつとめた貴族の家系が武士に乗っ取られた」珍しい戦国大名です。

一揆 Edit

武家が団結して集団行為をすることです。(EUを想像するとわかりやすいかもしれません。)
勘違いされがちですが暴動を起こすことは一揆の中の土一揆であり、一揆=暴動ではありません。
農作業を放棄(ストライキ)して山へ逃げ込む農民もいます

有名なものは加賀一向一揆や長島一向一揆、毛利氏を中心とした安芸国人一揆があります。

石高 Edit

その土地の作物の収穫量、生産性を「石」という単位で表したもので、現代でいうところのGDP(国内総生産)のようなものです。
この量が多ければ多いほど、その土地、国は豊かであるといえましょう。
たとえば、当時最大の穀倉地帯であった加賀国は「加賀百万石」と称せられ、豊臣五大老のひとり、前田利家が預かっていた国として有名です。

城娘のセリフ Edit

殿様 Edit

「殿下」という敬称は古代中国で諸侯(まだ周王朝が王号を独占していた頃の話)に使われた敬称で、のち皇太子などにも使うようになり、律令制度のもとでも一部の皇族に限られました。
「殿」という敬称も当初は摂政・関白に限られていたと言いますから、「殿下」に準じた使われ方であったのでしょう。
しかしどこの国でも敬称はインフレを起こすもので、「枕草子」にはすでに「大納言殿」「中納言殿」といった表現が見られます。


平安時代から、本来天皇を指す「御所様」という敬称が高位貴族に降りてきて、「公方(様)」も公権力を行使する側が広く用いるようになり、特に鎌倉幕府の(実権のない)将軍はこの敬称で呼ばれました。
また、武家が「屋形(館)」を敬称として使うことも始まりました。


足利将軍家は自分も公方を称するとともに、「公方」「屋形」の敬称を一族や有力守護に認めました。家格を示す一種の称号となったわけです。
「殿様」はそれらの下の敬称として広く使われました。
「上様」も天皇などを指す言葉でしたが、徳川家康の家臣が日記の中で最盛期の織田信長を「上様」と表現しており、戦国時代には「殿様のその上の人」というニュアンスで使われることがあったようです。

普請(ぶしん) Edit

「島普請だけじゃのうて穴太衆も呼ぼうでえ」「天下普請の城を侮るでない」、ゲーム内でも時折登場する台詞ですが普請とは一体何でしょうか。
平たく言えば土木工事における基礎工事を指します。実際に櫓を立てたり壁を設けたり御殿を立てたりする作業は「作事(さくじ)」と言い、普請には含まれません。
「城普請」と聞けば「建物として城を立てる」と思いがちですが、その実、塀・堀・石垣を築くことを意味し、あくまで建築は付属の扱いなのです。

穴太衆(あのうしゅう) Edit

近世城郭で石垣は無くてはならない存在です。防衛においても要の要、ここが崩されると城の防備は一気に無力と化してしまいます。
そんな大事な礎の部分を任された石積み職人を通称「穴太衆(あのうしゅう)」といいますが、必ずしも近江の穴太を指すわけではありません。
俗説では朝鮮式石積み技術を持った高麗人(または百済人とも)が日本に帰化し、九州から本土へと移住の末、技術が伝来していったとされます。
石積み職人の技術を余すことなく発揮した最初の城郭は何といっても安土城でしょう。
比叡山の麓に住んでいた彼らは日頃より寺院の石積みを担当しており、その技術を買われ安土城の総石垣という大事業に参加しました。
「見せる城」安土城も石積み職人の力がなくては完成しなかったことでしょう。

徳川御三家 Edit

「徳川御三家、紀州和歌山城、見参!」とあるように、徳川幕府成立後、和歌山城は紀州徳川家、名古屋城は尾張徳川家、水戸城は水戸徳川家という徳川御三家の城になりました。
これらの城は徳川美術館の見解によると、あくまで徳川将軍が城主であり、それぞれの藩主は城代であるとされますが、他に幕府直轄の城となった歴史がある城としては、江戸城徳川大坂城駿府城二条城水口城などがあります。

妖怪について Edit

妖怪とは、一般的に日本や中国などの東洋に古来から伝わる怪物の総称です。
様々な種類が存在しており、人間に対しては驚かせたりする程度のものから、命の危険が及ぶようなもの、逆に人間に何らかの幸福を招くようなものもいます。
その正体は妖怪ごとに色々ありますが、山彦などの当時まだ解明されていなかった自然現象、化け狐や猫又のような年老いた動物が不思議な力を得たとされる姿、はたまた土蜘蛛のように朝廷などの体制側にとってアウトローな人々(地方豪族、盗賊など)の暗喩である場合もありました。


また、最もポピュラーな妖怪の一体である鬼は様々な解釈が存在し、魂という字に使われているように死者の霊を差すこともあれば、酒呑童子の伝説のように盗賊であることもあり、赤い肌に虎皮の腰巻きという風体から外国人の隠喩であるとも考えられています。
略奪を行う乱暴者というイメージが強いですが、上記の酒呑童子が罠にはめられた際に「鬼に横道なきものを」と叫んだこともあるように嘘や卑怯を嫌うという側面もあり、仏教においては仏法の守護者として信仰を集めていたりもします。

コメント Edit

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示

  • 万能ですね葉5さん! -- 神籠石の人? 2017-06-18 (日) 00:07:46
    • ラジオボタン押し忘れたwwwはずw -- 神籠石の人? 2017-06-18 (日) 00:08:45
  • 「普請」「穴太衆」は城娘のセリフの項でよいかな? -- 神籠石の人? 2017-06-18 (日) 21:57:32
    • いいと思います -- 2017-06-18 (日) 23:54:39
      • ありがたい。 -- 神籠石の人? 2017-06-19 (月) 00:14:45
  • マナーハウス追加しました。どなたかロマネスク様式、ゴシック様式、ルネサンス様式に詳しい人は居ませんか?もしいましたら追加して頂けるとまた内容が充実します。 -- 神籠石の人? 2017-06-17 (土) 09:52:05
    • 海外城といえばイギリス城の人ですし、期待しましょう -- 2017-06-17 (土) 10:18:59
      • そうですね、また今後もさまざな編集殿の登場があることでしょうし、気長に待ちますかな! -- 神籠石の人? 2017-06-17 (土) 11:08:35
      • 今のところ名前があるのは神籠石の人とイギリス城の人だけかな?他にも城情報を編集してる殿はいそうだけど、名前付きで名乗り出てくれたらここも城情報ページももっと活気があるページになるのにな -- 2017-06-17 (土) 11:27:19
      • 城情報全般やってるから、特に名乗るような名前はないな。古代や海外はそれほど詳しくないので助かってます。 -- 2017-06-17 (土) 11:47:51
      • なるほど、いつもありがとうございます。全般書いてる殿が大半を書いて、そこを神籠石の人とイギリス城の人が補完する三人体制が大枠ってところですね -- 2017-06-17 (土) 14:23:12
      • 感覚的にあと一人か二人はいそうだけど分からんです。とりあえず最近応仁の乱系やってたのは自分で、今は赤穂城のページに赤穂事件について書いてきました。この雑学のページでは、現実の城年表作ったりいろいろ。 -- 2017-06-17 (土) 18:28:55
      • 未実装の城紹介、けっこう増えてきましたもんねー。そのほとんどを書いているというのは頭が下がる思いです。年表も城郭史に精通しているというのが滲み出ていますし、赤穂事件の紹介はかなりの大作で読み応えがありました -- 2017-06-17 (土) 19:27:53
      • 体感だと総勢10人前後で情報を編集している感じですかね。声優捜索の人、イラストレーター捜索の人、近世城郭の人、このwikiで専門特化した殿は掘れば掘るだけ居そうですね。 -- 神籠石の人? 2017-06-17 (土) 21:07:00
      • CV・イラストレーターや招城城娘のステータス最大値入力も基本葉5がやってますけど、最近イラストレーターを発掘してくれる人がいますね。 -- 2017-06-17 (土) 23:31:16
      • 近世城郭の人というのもいましたか。全般を書いている方が全時代をカバーして、それを古代、近世、海外に特化した編集殿が支えるという体制ですね!というか、全般の人はイラストレーターやCBの編集まで手掛けていて本当に凄い・・・このwikiの編集マスターですね -- 2017-06-17 (土) 23:47:53
    • なんか期待されてる…(3日前に気づいた)。 テンビー城とデンビー城のときにいちおう名乗っただけで基本匿名でやってる身でほんとすいませんw ざっくりまとめてみてますが、長くなりそうなので折りたたみを増やす方向でいこうかなーと。 -- イギリスの城書いてる人? 2017-06-22 (木) 18:10:31
      • 僕も雑談とか他の板では名前伏せてますwまぁバレるんでしょうけど。ボチボチでいきましょ。自分にあった形式で編集なり追記なりしていけば良いし。 -- 神籠石の人? 2017-06-23 (金) 12:40:44
      • お二方とも自分なりのペースでお願いします〜、楽しみ -- 2017-06-23 (金) 12:52:19
    • とりあえず軽くまとめました。必ずしも築城様式=建築様式ではないので城構造についてだけ書いてみました。最後にオチみたいに持ってきちゃったけど復古様式の城も嫌いじゃないんですw -- イギリスの城書いてる人? 2017-06-23 (金) 23:19:11
      • ありがとう!添削と追記も感謝。僕が書いてたカーテンウォール式ってキープ外周にカーテンウォールがあるだけで通常のシェルキープとあんまり変わらないって感じすかね。 -- 神籠石の人? 2017-06-24 (土) 06:23:04
      • 見出しが多くなりすぎてしまったので見出し形式じゃないように修正。  んで、カーテンウォールの件ですが囲郭式と集中式どっちにも当てはまるなーって感じだったのでああいう風にしました。 -- イギリスの城書いてる人? 2017-06-24 (土) 21:18:28
      • いっそ城郭用語集ってページ作ってまとめても良い気がします。「城娘のセリフ」とか項目分けが怪しいものも一緒に移植して。どこまでを城郭用語とするかの定義問題についても、「城」とどう関係あるか明記することを条件とすれば、そこまで悩む必要はなさそうな。 -- 城郭史全般の人? 2017-06-24 (土) 21:58:15
      • あーそっか確かに集中式や囲郭式どちらとも言えますね。用語集の件ですが、城郭志全般の人同様、ぼくも別ページの必要性が顕在化しつつあると考えています。「雑学」でおさまっていた時期からもうおさまらない時期へと変遷しているかと。ページの分化は編集できる人間や「編集してみよう」と思い立つ人が弥増しした良い結果ではないでしょうかね。 -- 神籠石の人? 2017-06-25 (日) 08:13:19
    • 最近詳しい殿達のお陰で、内容が増えていていいですね。編集ありがとうございます -- 2017-06-25 (日) 18:52:18
      • 城郭史全般の人、神籠石の人、イギリス城の人、この三人がいれば城郭関係は完全網羅できますよね、本当に感謝感謝です -- 2017-06-26 (月) 12:15:43
      • こちらこそ、皆さんが楽しく読んでいただけているようでしたら幸甚です。葉一さんの発言に、個人としては期待に応えたい気持ちでいっぱいですが、現実、完全な網羅は難しいですよやっぱり。一個人の網羅性にも限界ってものがありますから。あと2〜3人居たらもっと深掘りできるんじゃないですかね。 -- 神籠石の人? 2017-06-26 (月) 12:53:50
      • 神籠石の人でも完全網羅は難しいですか。でも他の二人も含めて出来る限りで編集やっていただいてありがたいです。今後も楽しみにしてます! -- 2017-06-27 (火) 07:40:13
      • むかし「官位」とか「殿様」とか書いてましたが、最近にぎわってるので久しぶりに「要塞のたそがれ」を書きました。だんだん書けそうな隙間が見つけにくく(苦笑) -- 要塞のたそがれの人? 2017-06-28 (水) 00:00:44
      • 要塞のたそがれの人、初めまして。僕は飛鳥・奈良・平安時代の古い城や古墳を書いてます。名乗っていただけて大変うれしいです。勝手な好意ですが仲間が増えたようで。隙間…そうですね、「妖怪」とかどうですかw僕は伝承としての河童の説明を書かせていただきました。中々ニッチなジャンルなのでまだ未開拓ですよw -- 神籠石の人? 2017-06-28 (水) 00:06:06
      • さらに編集殿が増えたか。ゲーム攻略wikiに集まってくれるとはすごいな -- 2017-06-28 (水) 07:54:28
  • 松山城の土塀にゴルフボールが打ち込まれましたが、あれは最近の『日本の城見聞録』で大谷さんが「この土塀は木を切って土塀そのものを落とすことで石落としのような役割になる」という説明を受けていた土塀でしょうか?それが松山城だったかあの土塀だったのか記憶が定かではないのですが。 -- 2017-06-29 (木) 16:17:50
    • その説明だと隠し狭間ですって。石落としは文字通り石を落とすのにも使えますが、弓や鉄砲の狭間になる隙間です。 -- 2017-06-29 (木) 16:30:36
      • 番組をご覧になった方でしょうか?土塀そのものを谷に落とすという説明をされていましたが。 -- 2017-06-29 (木) 16:46:27
      • あ、別に「石落とし」とは城の防御用開口部のことではなく、「石を落とす行為そのもの」のことです。 -- 2017-06-29 (木) 16:50:38
      • ああ、そうですよね。それならやっぱり分かりません。普通に石を土塀の上から落とせば良いような気もする。 -- 2017-06-29 (木) 16:56:59
      • それは楠木正成が千早城で使った手ですね。
        昇ってきて手や梯子を掛けた所を切って落とす戦法です。 -- 2017-08-05 (土) 16:47:38
  • 『御城プロジェクト:RE ~CASTLE DEFENSE~ プロモーションムービー』作曲者は杉浦ラフィン誠一郎さん。 -- 2017-09-02 (土) 01:08:30
  • 『御城プロジェクト:RE ~CASTLE DEFENSE~ アプリ版事前登録開始記念ムービー』、今回も作曲者は杉浦ラフィン誠一郎さんムービー制作はgram6design。そろそろ外部スタッフ情報だけで別ページ作成してもいいかなと思いつつ、とりあえず情報だけ置いておきます。 -- 2017-12-22 (金) 21:33:57
    • とりあえず追記。前に編集会議室で相談して、このページに記載していますが、木に書いた通りそろそろ新規ページ作成してもいいでしょうかね? -- 木主 2017-12-28 (木) 23:36:22
      • どうぞやっちゃってください。 -- 2017-12-28 (木) 23:45:39
    • 外部スタッフ・関係者というページに丸ごと移植しました。 -- 木主 2017-12-29 (金) 00:39:31
  • 「城について」をパラっと読んでて思ったんだけど、昔は防衛兵器が優勢だったんだねぇ・・・。
    現代は攻撃兵器超優勢の時代だから、昔の人にとっての城の重要さっていうのが、いまいちピンとこないっていうのはあるかな。 -- 2018-03-21 (水) 00:21:18
    • その昔は人間が武器持って攻め込むのが攻城戦だったわけだしなー。それから火器の発展とともに城も発展していって、五稜郭とかは大型火器も想定してあの形状なんだけど、それでも数キロ先から艦砲射撃撃ちまくられてはどうしようもないというか……あと空襲とかも勘弁な。 -- 2018-03-21 (水) 00:54:52
  • 佐和山って役割としては案外ショボい城だったのか。三成ってけっこう下っ端・・・? -- 2018-03-22 (木) 01:12:07
    • 最前線に置かれ、北国街道と東山道を抑える交通の要衝で、なんでショボいと思ったのか分からないけれど。 -- 2018-03-22 (木) 01:28:18
      • 都道府県庁、市町村庁、支部・別館、警備所ってきてたもんで -- 2018-03-22 (木) 02:18:11
      • むしろ中心部に近づくほど戦の舞台になることは少なくなるからね。佐和山城は美濃や北陸方面から来る敵から、京都や大坂を守るための前線基地だね。 -- 2018-03-22 (木) 02:36:41
  • お -- 2019-10-11 (金) 08:03:38
  • あ -- 2019-10-11 (金) 08:04:19
お名前:

  URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White


ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS