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宇陀松山城
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現実の城情報 Edit

大和宇陀郡に割拠した有力国衆で、沢氏・芳野氏と並ぶ「宇陀三将」の一つ、大和秋山氏が居城としたことに始まる。
大和秋山氏は伊勢神宮領大和宇陀神戸の神戸社の神主家であり、南北朝時代には南朝方について伊勢国司北畠氏に仕え、奈良盆地南東の古城山に城を築き、当初は秋山城と呼ばれた。
応永22年(1415年)に北畠氏が後南朝方として挙兵すると大和秋山氏もこれに従い、応仁の乱においても北畠氏に属して戦った。
やがて北畠氏が戦国大名として領国支配を強めるようになると大和秋山氏は反発し、『勢州軍記』の「秋山謀叛事」には秋山教家が三好氏の婿となり、北畠具教に従わず勝手な振る舞いをしたとして、永禄年間の初めに神岡山城(秋山城)を攻められたとある。
その後大和秋山氏の家督は秋山直国が継ぎ、松永氏、筒井氏に属したのち、天正13年(1585年)に豊臣秀長が大和郡山城に入り国主となると、直国は蒲生氏郷に仕え秋山城から退去した。


所在地奈良県宇陀市大宇陀拾生・春日・岩清水
現存状態門、石垣、堀など
城郭構造山城

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